先月の長い「話の枕」にうんざりした人も多いでしょうから、今月は簡潔にいきたいと思います。
先月あれだけの時間をかけて書いたことをおさらいするならば、要するに、「目の前のことがらを認識(=言語化)するために、人間の脳は膨大な量の視覚情報をスキャンするように取り込んではその大部分を捨てているらしい」ということです。(67字ですんじゃった!)
僕は人物の写真を撮る仕事をしているので、同じ被写体に何度もシャッターを切る癖がついています。仕事上は失敗ができないので、ピントのズレや、避けたつもりのマバタキの瞬間がシャッターのタイムラグのせいでドンピシャに写っていたり、そういう失敗を避けるために何回も(ときに何十回も)撮ります。
仕事以外で路上で撮る写真には、そういう複数回のシャッターは必要ないのですが、それでも癖で、つい何回も押してしまうときがあります。とっさにカメラをのぞいて撮った1枚目、ピントに自信がないからと続けてもう1枚、手癖でもう1枚。
ところが、十中八九、どれが一番面白いかというと1枚目なのです。
何か引っかかるものがあってカメラを向ける。その時点ではシャッターを押す行為は脳内の言語化作業と競争状態にある。まだ頭でよくわかっていない状態で、認識前のスキャン情報だけに感応していることになります。ところが2回目のシャッターは、もうすでに「整理」の事後になるわけです。今まで脳内に蓄積された自分の美意識的なものの干渉を受ける。
何が面白くて写真を撮っているのかというと、この「美意識の干渉」を受ける前の、言語化以前の自分の感応を掬い上げられるのが、写真というものの特性だと思うからです。他のジャンルではなかなかそうはいかない。描いたり彫ったりしているうちにどんどん自分の「言語」に浸食されて、初期情動みたいなものを残しにくいはず。ところが瞬間芸である写真にはそれができるのです。スキャンしたての意識化される前の情報がカメラを持った体と共謀して写真を撮りに行く、とでもいうべきか。
これは本来、別に路上でスナップしているときだけの話ではなく、ライトを考えて人物を撮るような、セットアップされた写真でもそうなのだと思います。表情の動きやたたずまいのどこでシャッターボタンを押すか、もしくは「押さない」か。類型的な「良い」表情にとらわれて自分がガンジガラメになる前に、いかに自分の「不自由」から逃れてシャッターボタンを押せるか。被写体に向かいながら自分の不自由さとも格闘する。そういうところに、実は撮る側の面白さがあります。
(” About a view” TANTO TEMPO pure 2012 より)
自分の狭小な美意識にとらわれてしまう前に、生な情動を捉まえる。柵をはみ出したものが、あらたに美意識の柵を拡張してはまた固まっていく。その柵をはみ出すためにまたシャッターボタンを押す。
写真を撮るというのは、そういうループに入ってしまうことなんです。たぶん出口はない。