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3F/長期滞在者&more

青空

長期滞在者

松本大洋の漫画『花男』(傑作ですよねぇ!)の中に、茂雄が鏡を目の下に構えて360度青空状態で歩いて感動するシーンがある。
クールな茂雄が感動しているのである。真似してみたくなるではないか。
やってみたのである。

お・お・お

凄い。確かに感動する。
眼下に青空、天にも青空。360度真っ青である。
太陽が足の下にあるんだぜ!
花男「空、飛んでる気分なの」。

しかし感動した直後、恐怖が来る。
ふわっと重心を失ってしまう。
どちらが上か、どちらが下か、体が熟知しているはずの感覚がすっ飛んでしまうのだ。

(視覚として)地ベタがないということが、こんなに怖いとは。
海で溺れたらこんな恐怖でパニックを起こすのだろうな。
自分の体の重心・位置配分とか、上下感覚とか、そういったものが、たかが視覚のトリックひとつで安々と崩れてしまうのである。

前に、自転車を漕ぎながら視界をぼやかすと急にペダルを漕ぐ脚の負荷が増す、という実験(?)のことについて書いた(「ソシュール・サイクリング」)。
視覚情報は認識(=言語化)に裏の深いところで大きく関わる、という話だったが、それだけでなく、身体的なバランス感覚の部分にまでも想像以上に大きく関与するらしい。
鏡の青空で足下を隠すだけで平衡感覚が撹乱するなんて、三半規管等、そういうのを司る部位たちはいったい何をしておるのか。

まぁ、彼らもサボってるわけではなく、常に脳にそういう情報を伝え続けてはいるのだろうが、脳もずっとその情報を意識し続けるのも大変だし、たぶん適当な感じで受け取りつつ、たいていは視覚による簡易上下判定に頼っているのだろう。なのでたまにトリックをカマしてやるとうろたえたりするのだ。おそらく。

脳科学の学生でもないし、バリバリ文系のド素人なので、例によって話半分(どころか話 1/10 くらい)で聞いてくださればいいのですが、こういう体験をするにつけ、視覚というものの役割についていろいろ考えてしまうのです。
なんか、ものすごく大雑把な感じで、視覚はいろんなものを補完してるんだろうなぁ、と。
そして、そういう融通無碍な役割を担わされているからこそ、逆にある程度大雑把でなくてはならないのだろう。

目は情報を脳に伝える入力装置として、あまり高い精度を求められてはいない。高精度で入力し続けたら脳もオーバーヒートしてしまうし、わざといろんなものを省略したり簡易化したりして、大雑把な概略だけを伝えている(実はその裏で膨大な情報をスキャンするように集めてはごっそり捨てている、という話は先の「ソシュール・サイクリング」参照)。
錯視とか幻覚とか正体見たり枯れ尾花とか。
案外目からの(脳にちゃんと残る)情報というのは信用ならない、ずいぶんざっくりしたものである。

・・・・・

「写真」の面白さの一つは、そうやって視覚が普段あえて省略している部分が、機械的に、強制的に写り込んでしまう、というところにもあるんだと思う。
情報が精緻に写り込んだ写真を見るとき、いかに普段自分たちが視覚情報を選んで、残りは捨てて生きているのか、ということに気づく。
眼前の視界にはびっくりするくらいの情報が散りばめられているものだ。こんな情報量を常時全部見ていたら忙しくて生きていけない。
写真はそれを斟酌なく拾い上げてしまう。

逆に、写真には、人間の目がお互いに連係し依存しながら感覚を作り出している「からだ」の部分がない、ということでもある。
写真とはからだを置き去りにした視覚だ。
これを否定的に捉える必要はなくて、からだ部分をすっこ抜いた視覚、という意味で改めて写真を眺めてみたら、いろいろ面白いことも発見できそうな気がする。

人間が本来視覚に共謀させている他の五感の情報を省略して、視神経だけになって見る光景。これが写真の一番純化された部分なのだろう。
僕らが常に感じ続けている写真への違和感、現実と被膜一枚ズレた感じ、というのは、たぶんそういうことだ。
人間は視神経だけでは生きていないものね。

ある人はそれを写真のよそよそしさであるといい、ある人は虚構なのだというだろう。ある人はすべて写真には死の匂いがするともいう。
それもしかたあるまい。からだがないのだし。

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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

普通に生活している時に「見ている」のと、意図的に「見るをしている」とは、また全く違った回路を使っている気がする。

「見るをしている」時にだけ、ひとの脳は錯覚を起こすのではないか、とか。

例えばカニッツァの三角形とか、だまし絵とか、3Dに見える仕掛けとか、ぱっと見ても、そこにそれらがあることを知るために目で軽くおさえたり、撫ぜたりするだけでは「見えない」のに、「見るをする」と見えてくるものたちがある。

「写真とはからだを置き去りにした視覚だ。」というのには「おお!」と思うのに、わたしたちが写真を「見るをする」と、結局その感じを味わうことはできない。

撮影する時には、その誰かの身体がある。
誰かの眼と、その身体が「見るをする」をしている時に撮っている(見ずにも撮れるし意図的に何かを誇張も出来るけどそれは今おいておく)。

けれど、自分が撮った写真を後から見ても、実際「見て」いたよりも膨大な情報が写真には残されるから、改めて実物となった写真を「見るをする」と新しい発見がある。

それでもその時すべては「見えて」いなくて、時間をおいてその写真を見た時に、その時見えなかった(注視 しな/できな かった)ものが今度は見えたりもする。
脳が得た視覚情報から補完するものが「見える」ようになることもある。

永遠にわたしたちは視神経にだけはなれないからこそ、脳の補完をなかなか止めることはできない。

写真にはあるものしか写らないが、ないものがあるように写すこともできる人には出来るし(見る人の脳の補完を掻き立てる要素を仕掛けることがそういうことなのかと思う)、画のためにそれまではそこにない世界を用意したり(石ころひとつ動かすこともそうだ)、機械の設定で眼に見えるもの以上の情報を集めたり逆に幾らかを破棄した状態で固定させることも出来る。

それらを豪快にしょっぴいたとしても、まだなお写真を見て「おもしろい」とか思う思考回路は成立するのではないだろうか。

よそよそしさや虚構であるとも感じる人もいるといわれながらに、こうして写真に魅了される人々が絶えないのは、この脳と視神経の関係が大きく関する仕業なのかもしれない。
そうと思うと、こうして写真を撮る人間がそれについて考え話すことは至極当然なようで、わたしが無知なだけなのか、あまり知らない。

今回、特にレビューはまとまりなくしめてしまって申し訳ないのだが、話にもでてくる「ソシュール・サイクリング」もあわせて、というか、今回に限らずだけれども考えるきっかけをいつもありがたく思うばかりです。

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