高橋幸宏の訃報の悲しみも癒えぬ間に、今度は坂本龍一が亡くなったとの知らせである。
人は、だいたい中・高生くらいにどんな音楽を聴いていたかで人格のある小さくはない部分を規定されてしまうような気がするのだが、そういう意味では僕はどっぷりとYMOに枠を填められてしまった年代である。
その枠となった3人のうちの、2人がたて続けに亡くなった。これはしんどい。
中学3年の時にクラスに池澤君というYMOに関するラジオやテレビの番組はすべて録音しているというマニアがいて(当時はもちろんカセットテープ)、彼から色々教わってYMOを聴き始めた。
彼に借りたカセットテープの中にFMで放送されたYMOのニューヨーク・ボトムラインのライブ(1979)があり、これは本当に全曲名演なのだけれど、その冒頭「CASTALIA」(作曲・坂本龍一)の演奏に、いきなりガツンと音楽の美しさと乱暴さと深淵を教えられた気がするのだ。
スタジオ録音(『Solid State Survivor』に収録)の同曲よりも、このライブの「CASTALIA」は、本当に、本当に、最高なのだ 。
これを聴いて僕の脳の音楽をつかさどるどこかが開いた。15歳の脳に深く刻印された。
テーマからして暗い曲であるが、本来のメロディの上に弾き足される坂本龍一の静かなアドリブラインが美しく寂しくザラザラと肺腑を締め上げる。それまで聴いたこともない世界だった。大げさではなく、この曲が僕の中の何かの導線を変えたと思っている。
池澤君のテープからダビングされたこのマクセルの90分テープは、ダビングによるノイズでひどい音質劣化ではあったが、もう何百回聴いたかわからない。
その後最初のソロ作品『Thousand knives』や渡辺香津美らとのKYLYN BANDにのめり込み、最初は難解でよくわからなかった2ndソロ『B-2 Unit』も、のちに自分が音楽的経験を積むにつれ、突然ある閾値を超えて「うわ! 凄ぇ!」と感動をもたらした。その音楽にあわせて自分の「聴く力」も鍛えねばならないということを知った大事な経験だった。YMOも『BGM』『テクノデリック』の中期2大傑作は、些細な一音も聴き洩らさぬほどに深く聴いた。
とはいえ坂本龍一の音楽に関しては、出会いは強烈だったが、正直、ずっと大好きだったとは言い切れないもどかしさのようなものも残るのだった。
「好きだったり嫌いだったりした」というのが正しい感じがする。それは若い頃もそうだし、最近でも同じだ。
亡くなったばかりの人の「嫌いだったこと」を書くのはちょっと気が引けるが、整理のつもりで書いてみる。
二十歳のとき見に行った坂本龍一NEO GEOツアーで、オキナワチャンズ(古謝美佐子・我如古より子・玉城一美)の扱いに「これは沖縄に対する音楽的搾取ではないのか」とモヤモヤした。ケチャと沖縄民謡をゴチャ混ぜにした音楽は、演者が自発的にコラボを望むならともかく、坂本龍一はどの高みからこの采配を揮うのかと疑問に思えた。のちに古謝美佐子や我如古より子の島唄を好きになると余計にあれが「おいしいとこ盗り」に思えて腹立たしかったものだ。
アルバム『Beauty』の中でも坂本本人が「安里屋ユンタ」を歌っているが、これも何だかなぁ、である。同じ「安里屋ユンタ」を歌っても『はらいそ』所収の細野晴臣版は彼の呼吸の中にちゃんと消化されていてさすがだと思ったものだが、坂本龍一のは、あれは何なのだろう。古謝美佐子らにフォスターを歌わせて自分が「安里屋ユンタ」を代わりに歌うという、まぁ何らかの意図はあるのだろうが、ひねくれすぎてて素直に聴けなかった(今でもだ)。
坂本龍一とオキナワチャンズは、あれはあれで沖縄民謡に対する関心を世間に広めたということでもあり、古謝さんたちも坂本さんには感謝しているとコメントを残していたけれど、そういう面もあるにせよ、なんかね。やっぱり当時はかなりモヤった気持ちになったものだ。
「Steppin’ Into Asia」も、当時十代の浅野智子を起用したタイ語のラップが可愛らしいので気分良く聴いてしまうけれど、冷静になると「なぜ日本人でタイ語?」と釈然としないものがある。
難解な『B-2 Unit』が音楽的経験を積むにつれ大好きになったと先ほど書いたが、逆に最近は若いころ良く聴いた『未来派野郎』の中の自己陶酔的な何曲かが急に胡散臭く思え、という風に、好きになったり嫌いになったりの浮沈を繰り返している。
しかし考えてみれば、ここは嫌い、とかブツブツ文句を言いながらもちゃんと追って聴いているわけである。
やはり常に気になる存在だったのだ。
ここからは「好きだったこと」を書くわけだが、受けた恩を語るならば、先に書いたボトムラインの「CASTALIA」は、本当に僕の音楽的経験の大きな扉になったわけだし、ダンスリー・ルネサンス合奏団とコラボした『エンド・オブ・エイシア』(名盤!)を聴かなければ古楽などというジャンルへ興味を持つこともなかっただろう。『Esperanto』では「架空の民族音楽」なんていうテーマ設定にわくわくさせられ、またそれを高度に実現してさせてしまう知識と力量に感動した。
そして言わずもがなのこと、1stの『Thousand knives』、2ndの『B-2 Unit』、その後の『音楽図鑑』等は日本の音楽史に残る名盤だと思う。
思えばエリック・サティの曲をはじめて聴いたのも坂本龍一のピアノであり、高橋悠治も「グラスホッパー」の坂本龍一との連弾で初めてその名を知り、そこからバッハやグールドへ広がった。忌野清志郎すら僕は坂本龍一経由だったのだ。
いろんな音楽が、坂本龍一や、YMOの周辺を経由して僕のところへやってきた。
そうなのだ、実に多大な恩恵を受けている。
一人の作曲家が、若いころから晩年まで僕の気に入る音楽ばかりオーダーメイドのように書いてくれるわけでなし、好きも嫌いも混じっていて当たり前と、今は思う。
たまにもやもやし、好きになったり嫌いになったり、また好きになったりした。
最近はまた大きな周回で「好き」モードに入りつつあったので、CDで所有していないアルバムをちょこちょこ中古で買って補ったりしていたところだった。
好きだったり嫌いだったりする、というのは、まさにリアルな人間関係的でもある。ある人のことを大概好きだったり、ある部分は許せなかったり。あいつ頭いいけどたまに癇に障るよね、とか。いいやつだけどあの癖だけは腹立つよなぁ、とか。そういう許容度のシーソーが人付き合いというものなんだろうし。100%好きなんて人がいたら、それは友人知人ではなくすでに「崇拝」になってしまう。そんな存在は要らない。
「嫌いな部分」というのは何であれ、人間関係においてけっこう重要なんじゃないかとすら思う。その人を人として対象する上で不可欠な部分である。自分はその、何を目こぼしして関係を保っているか。もちろんそれは自分自身にも還ってくる問いである。
人間関係だけではなく、アート的なものでも音楽でも、自分が譲れない「ここは嫌い」を掘り下げてみたら、いちいち面白いかもしれない。表現者であれば、自分の、自分の表現の中の嫌いな部分にまで自覚的でなければいけないかもしれない。嫌いを含んだ自己を研ぎ澄ますというのはなかなかに骨の折れる営みだろう。
いろいろ書いてきたけれど、坂本龍一本人ではなく、「坂本龍一の音楽」の話だった。人柄等のことは知らない。
坂本龍一の音楽というのが、そういう隣人のような存在だったということかもしれない。坂本龍一本人は知らないけれど、坂本龍一の音楽は、ずっと隣に住んでた、長い長い知り合いだった。
たまに腹も立ったが、それでも凄いなぁと思える隣の人。
・・・・・・
そうかー。坂本龍一亡くなったのかぁ。
若いころ聴き倒した音楽家が世を去る。僕もそういう年齢になってきたということである。それにもびっくりする。
坂本龍一が亡くなったと聞いて、追悼のつもりで最初に流したのは、もちろん1979ボトムラインのライブの「CASTALIA」であるが、あの池澤君から借りてダビングしたテープはどこかに紛れて見つからなかったので、聴いたのはCD『ONE MORE YMO』に収録されている同じソースのremix音源である。*(注
音質的に美しくなっていたがクセを抜かれてもいて、ノイズまみれのカセットテープから浮き上がる生々しく剥き出しの音楽が懐かしく、音の整いすぎたCDの方はなんか「これじゃない感」が強かった。同じ演奏でもミックスダウンで相当に印象が変わるのだ。
で、もしかしてyoutubeあたりに上がってないかと探してみた。
おお。あるもんですね。
「YMOボトムライン1979ライブ」で検索すれば、「FMオンエア版」としていくつか見つかった。
そうそう、冒頭1曲目、これなんですよ。この剥き出しの「CASTALIA」に高校生の僕はやられ、今もまだやられてる。
気になる方は探して聴いてみて。( → click
今まで考えもしなかったが、キャスタリアとは何だろう、と初めて調べてみたら、ギリシア語で知識の泉、だそうだ。
さすがの坂本龍一。
さよなら安らかに。