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3F/長期滞在者&more

ふたたび、デジタル・モノクローム

長期滞在者

今まで何度もデジタルのモノクロ撮影に本腰を入れようと思い立っては長く続かず、いつのまにかカラー撮影に戻っている。
デジタルカメラというのはカラー・モノクロどちらでも撮れてしまうので、どっちでも撮れるカメラというのは結局撮ってから考える、みたいな順番になってしまい、そんなのではろくな写真が撮れる道理がないのである。
フィルムカメラにモノクロフィルムを詰めているときには、やはり脳内がモノクロの諧調をサーチするモードになっていた。色情報はすっとばして光の明暗ばかり見て歩いている感じなのだが、どちらでも撮れるカメラを手に持ってしまえば、やはりなかなかそこまで視神経を騙しおおせないのだ。
ライカやペンタックスからモノクロしか撮れないセンサーを搭載したデジタルカメラが発売されていて、おおお、欲しい! と思ったけれど、お値段がかなりイカツい。今の生活では到底到底無理である。

ところでシグマSD1 merrill という、ちょっと特殊なカメラを12年前から使っていた。これは運動神経・反射神経は鈍いけれど、じっくり撮るならば素晴らしい解像力と諧調を得られる、なかなか得難いカメラだった。専門的な話をするならば、FOVEONセンサーという通常のベイヤー配列センサーとは根本から異なる仕組みのセンサーが使われている。興味あれば調べてみて。
しかしいろいろあって手放すことになった。いろいろあって、と含みを持たせたが、ちょっと悪口になるので書かない。いや書くか。現像ソフトの更新により、以前ほど目の覚めるような解像感や、モノクロ撮影時の諧調の緻密さがなくなってしまったように感じるのだ。後継機種(sdクアトロ系)に合わせるバージョンアップで、古いこの機種(メリル系)の特性を十全に引き出すものではなくなってしまったのではないかと思う。
パソコンのOSの絡みで旧バージョンのソフトに戻すこともできないし、もうカメラごと諦めることにした。かなり好きなカメラだったのだが。

ところでこの手放したシグマのカメラに付けていたシグマ18-35mm F1.8というズームレンズ。ズームなのにとても明るい(その代わり重い)良いレンズである。フルサイズ対応ではなくAPS-Cサイズ用である。
このレンズの写りはとても気に入っていたので、カメラは手放してもレンズだけは手元に残すことにした。2万4千円払えば他社カメラのマウントに交換してくれるサービスがシグマにはあるので、キヤノンEF (一眼レフ)のマウントに改造してもらった。
そして、そうだ、このレンズを付けたAPS-CサイズのEOSを、モノクロ専用機にしよう、と思い立ったのである。このカメラ(EOS-60D)は知り合いからジャンク扱いで格安で譲ってもらったもの。電源の調子が不安定なので、という話だったが電池室を磨いたら綺麗に動くようになった。全然ジャンクじゃない、ただの接点不良カメラだったのだが、綺麗に直ったことは黙っている(たぶんこの記事は読まない人 笑)。
そんな風に手に入った特に思い入れのないカメラであるからして、このカメラでいろんなものを撮りたい! とは思わない。だったらいっそこいつをモノクロ専用機にすればいいのでは、と考えたのだ。良いアイデアだ。

ということで、ここ一ヶ月くらい、デジタル・モノクロで写真を撮っているのである。
モノクロームの写真というのは、僕も長い間、自宅に暗室を作って自分でプリントしてきただけに、「諧調は紙の地白から銀の最高濃度の黒までの端から端まですべての濃度域を使うべし」とか、「RCペーパーは黒が締まらないのでバライタ紙じゃないとダメ!」とか、昔ながらの技法・習慣が染みついてしまっており、それを簡単にデジタルに置き換えるのが難しい。難しいというか、データ的な再現は難しくないのだが、そこに手仕事とか手触りとか、写真の工芸品的な側面の評価が入ってくるのがややこしいのだ。
暗室作業は好きだった。暗い部屋の中で行われるフィルム現像やプリント作業の秘儀的な、というか、ある種の淫靡さのようなものは、これはやったことがある人にしかわからないだろう。モノクロ写真が好き、ということの大半は、僕はそうなのだけれど、暗室作業が好き、という職人的・工芸的プロセスが含まれてしまうので、逆に話が面倒になる。モノクロ写真の価値は、逆にそういう暗室の秘儀的部分や工芸品的な物質感を排除してなお失われないものなのだろうか。要するにデジタルでもモノクロ写真に価値はあるのか、という話に戻ってくるのである。

モノクロームの写真というのは本来、たとえばサーモグラフィーが温度を感知して温度ごとの色を新たな視覚として写し出す特殊な画像生成装置であるのと同じくらいに特殊な、眼前の光景から色彩成分を抜いて明暗諧調だけに還元してしまうという「不思議な画法」なはずである。写真の歴史の黎明期からずっとモノクロだったというのは発明の順番がたまたまそうだっただけであり、何かの間違いで始めから総天然色再現が可能であったならば、モノクロの特殊性というのはもっと際立ってわかりやすかっただろう。
今までの歴史的なモノクロ写真の受け取られ方、カラー再現も可能な時代にあえてモノクロが生き残った理由、ノスタルジーだとか(これは単にモノクロームの写真術の方が技法的に古くから存在するという時系列を混用しているだけの錯覚である)、そういう風に手垢のようについてしまった理由を剥がし、手工芸的な要素を排してもをなお、今撮るべき理由があるのかどうか。そういうことを、ちょっと撮りながら考えてみたいな、と思ったのである。
まるで無価値だとは思えないんだよな。

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ここひと月くらいに撮った写真を並べてみる。
なんか大口叩いてる割には普通の写真であるが。
目の前の光景を、色を抜いて諧調だけに還元したらどう写るんだろう? という初心に帰ったつもりで撮り歩いただけの写真である。いろいろあって最近は写真だけに集中していられる環境ではなかったので、リハビリのように、しばらく明暗の諧調の描く世界にアンテナを集中してみようと思っている。

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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

若者にとって、現代はフイルムカメラを使ったことがない、何ならカメラという写真を撮るためだけにある機械を触ったことがないということも珍しくない世界になってしまった。
スマートフォンにカメラがついていないものを、わたしは見たことがない気がする。

そして、スマートフォンのカメラ機能にはフィルター加工ができるものも少なくない。
ダウンロードしなくてはならないようなアプリを使わずとも、元々付帯しているアルバム機能のなかにすら多少のフィルターや画像加工のための機能がついていたりする。

写真なんてデジタル化によってカラーが当然であるかのような現代なのに、そのフィルターに"モノクロモード"はだいたいについている、と、思う。

未だにこの世には、モノクロしか撮れないフイルムがあることなんて、今のティーンエイジャー、否、U30はほぼ知らないのでは?なんなら30代でも知らないかもしれない。
そんな現代でも、フィルターにはモノクロフィルターが標準装備されているのである。これは不思議なことのようにも思う。

新聞なんかも今はカラー印刷のページが増えて、モノクロ出力されたもの(撮影の問題ではなく印刷の問題として)すら見る機会ってあるのだろうか。
そんな現代。でも、モノクロ写真はまだ新しく、珍しくもなく生まれ続けている。
それが例え、Instagramのフィルターによるモノクローム表現だとしても。

モノクロであるが故のうつくしさを誰かが見出し、誰かが享受すること。それはモノクロームが表現として確立している今、もはや半永久的となっているのではないだろうか。
それがデジタルであろうと、アナログであろうと。

とはいえ、なぜ今モノクロを使うのか、という問いは繰り返されるだろう。特に作り手に対しては、その意図を問うことは常に行われることである。
また、作り手がそれを自問することも同じくである。

カラーもモノクロームも選べる現代に、モノクロームを選択するのには理由が必要になった。

モノクロームを選択する我々。
その時その時の今、なぜこの選択をするのか、常にその理由は更新されるかもしれない可能性を秘めているからこそ、問いを携えて撮影に出るのである。

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