一眼レフというものをはじめて触ったのは高校生の頃である。
僕は演劇部に所属していて、その舞台写真を写真部の友人にお願いした。そのときにその友人のカメラをちょっと触らせてもらったのである。それまでカメラに何の興味もなかったから、一眼レフカメラとは何ぞやということも知らずにファインダーを覗いた。
万華鏡のようだった。
たまたまその友人のカメラのピントがそのとき至近距離になっていて、普通に覗くとファインダー内のどこにも確たる像がなかった。マイクロプリズム式のファインダーだったというのもある。ただただ窓外の光の明滅がきらきらボケて写っていた。
そのような視覚というのを経験したことがなかったから、眼球がびっくりした。
「何これ」
「ここ回したらピント合わせられるから」
顕微鏡のような仕組みか、と理解してリングをぐるっと回してみる。ただの光の明滅が、ぐんぐん教室の窓から見える隣の校舎の飾り窓になった。
おお! 面白い。
そのときはそれで終わりである。
それから7年ほど経って、事情があってカメラが必要になり、初めて自分の一眼レフカメラを購入した。
その当時(28年前)、もちろんフィルムカメラの時代だが、オートフォーカス(AF)は当たり前になっていた頃である。
しかし高校生の時に友人に見せられた万華鏡のような映像を覚えており、手動でピントを合わせる旧式のカメラにした。
中古のニコンFE、たしかレンズ込みで5万円くらいだったと思う。
以来この28年間、フィルムの時代から、デジタル化を経ても、ほぼずっと一眼レフで写真を撮ってきたわけである。
それが、なんとなく世の中「一眼レフなんて時代遅れ」的な風がびゅーびゅー吹いている。
誰が決めたのかそんなこと。
ただでさえスマートフォンに主役の座を奪われていることだし、カメラ業界も大変なのはよくわかる。
時代はフルサイズミラーレス。一眼レフなんてオワコン。そう煽って無理にでも新しい農地を耕さねばならない。
しかし、僕はカメラの原点が、あのキラキラの万華鏡なのである。
ミラーレスカメラのエレクトリックビューファインダー(EVF)は、ちょっと違うのだ。
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ピントの合わない世界をじっと見ることができるのは、レンズを通して見たときだけである。肉眼のみでピントのない世界を見るのは、不可能ではないがむずかしい。むりやり瞼をひっくり返してみたり、何か無茶をしない限り、人の目は何かにピントを合わせてしまう。フルタイムオートフォーカスである。
カメラもオートフォーカスが当たり前になって、ピントが合っていない状態を体験する時間も減った。シャッターボタン半押しで即座に合焦してしまう。
手動でピントを合わせていた時代、一眼レフのファインダーはピントの奥に、もしくは手前に、焦点を合わされていない奥行きが存在することを、現実的にも比喩的にも見せてくれていた。
焦点は合わせようとしないと合わないものだった。そしてそれが「見る(視る)」ということでもあった。
一眼レフというのはレンズを通ってきた光を、カメラ内に上向き斜め45度に置かれたミラーによってファインダーに導き、直接被写体を見ることができる仕組みである。ミラーやプリズムによって何度か折り返されてはいるものの、ファインダーで見えているのは現実の目の前の光だ。
シャッターボタンを押すとこのミラーは跳ね上がって後方のフィルム(デジタルカメラならばセンサー)に光を届け、露光が完了するとミラーはまた元の位置に戻る。
撮るたびにミラーが上下するのでパタコンパタコンと音がする。
いうなればフィルム時代に考えられた、苦肉の策とも言える画像確認システムである。デジタルのこの時代にいつまでこんなことやってるんだ、と言われれば、たしかにそうかもしれない。
そもそも一眼レフはあの奥行きを食うミラーのせいで、焦点距離の短い(=画角の広い)レンズの設計が難しい。レンズとセンサーの距離を縮められるミラーレスカメラの方がシンプルに設計できるのでレンズ自体も小さくできる。そう言われれば、無理して一眼レフという形に拘泥するのは馬鹿らしい、という理屈はわかるのである。わかってはいるのである。ほんとはね。
しかし決してノスタルジー的な意味から古い写真機システムにしがみつきたいのではない、と思っているのだが、あの万華鏡のようなファインダーに眼球が驚いた経験、光がミラーやプリズムを通して眼球に届く、それを捕まえるように露光する、というファンタジーに、思っている以上に引っ張られているらしい。
やはり僕は一眼レフが好きなのである。いいとか悪いとかではなく、目と脳にしっくりくるのだ。
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ここからは余談。
大先輩の老カメラマンに
「わし、目が悪ぅなってしもたから、これやるわ。君まだフィルムでも撮ってるんやろ」
と、数年前、ミノルタの古い一眼レフをもらった。50mmと85mmのレンズと一緒に。
レンズを透かして見ると、まぁ根拠はないのだが、何とも美しく写りそうな予感がする。ミノルタのレンズは「ロッコール」という名前がついていて、語源は六甲山である。澄んだ水のイメージ? 名前だけでよく写りそうだ。
まぁなんせミノルタのカメラもロッコール・レンズも使ったことがなかったので、ワクワクしながらフィルムを詰めて外に出た。
自転車に乗って尼崎の町をパタパタと撮り回り、武庫川の河川敷に出て水辺にいた五位鷺を撮っていると、シャッターを切るたびグシャ、と妙な音がしだした。
まぁ古いカメラだからなぁ、何か緩んでる部品があるのかな、とあまり気にせずそのまま撮っていたが、レンズを85mmレンズに交換しようとカメラについている50mmレンズを外したとたん
グシャッ。
カメラのレンズマウント部からミラーが枠の部品ごと飛び出し、足元のコンクリに当たってバラバラになり、跳ねたミラーがそのまま川に沈んでいった。
前に写真家・武田花のエッセイ集を読んでいて、彼女が家から持って出た一眼レフが、町を一周撮り歩くうちどんどん部品が欠落していき、家に帰るころバラバラになってしまった、という話が書いてあったのだが、「そんなアホな話があるか」と信じなかった。
いやいや「そんなアホな話」が、実際僕の目の前でも起こってる。
・・・武田花は嘘をついてなかったのか!
ミラーボックスの抜け落ちたカメラは、支柱が抜けた家のように、振るとファインダースクリーンも落下したし、シャッター幕もズレていた。
カメラをくれた老先輩に、フィルム1本も撮りきらないうちにカメラがバラバラになった、と報告すると、びっくりしながらも呵々と楽しそうに笑い「これがほんまのミラーレスやな」とドヤ顔された。不覚にも、ちょっと面白かった。
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