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3F/長期滞在者&more

ドーナツの穴

長期滞在者

エキセントリックが普遍を射る瞬間、ということを考える。
中心を射ることが出来るのは外周に位置する者だけである。

変人と揶揄されるカナダのピアニストが弾いた「奇矯な」バッハが、古色蒼然に思われていたその楽譜に新たな命を吹き込み、音楽というものの根底を揺さぶるような力を掘り起こした。その力はバッハの譜面の中にすでに描かれていたのだけれど、「中心」にいる人達にはその力がもう見えてなかったのだった。
もちろんグレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」(1981) の話をしているのですが。
(たとえが古いのはオッサンなので許してほしい)

奇矯、といえば、矢野顕子だって「なんであんな変な歌い方するの?」と『春咲小紅』の頃言われてたものだが(あいかわらず昔のたとえで申し訳ない。これまた1981年)、何も彼女は奇をてらって歌っているわけではないし、だったら「普通の歌い方」って何よ、という話になって返ってくるわけである。
普通の歌いかたって何だ?
そんなものありっこないのである。ありもしないものについて人は平気で話す。ドーナツの穴の罠である。

・・・・・・

音楽の話に限らない。
ダイアン・アーバスの撮った「外周の」人々のポートレートが、我々の心臓のど真ん中をブチ抜いて、ごっそり持って行ってしまう。
彼女の撮った外周の人々は中心を射抜き、彼女が撮った「中心(にいるはず)の」人々の顔は、なぜか外周の人々よりも狂気を帯びて見える。中心からの距離が完全に攪乱されている。

ドーナツの穴は外周なくしては見えないのだった。

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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

ものすごく疲れきり、ぼんやりとしてしまっている時は少し遠くをなにかが素早く通過していることを視界に捉えたとしても、それを改めて目で追うことをしないままやり過ごすことができる。

猫かな、とか、ボールかな、とか、なんとなく予想できる答えがあると、もうその予測だけで十分だったりする。

気付いてはいる、その存在。

存在に迫らなくていい、その理由は、少し真ん中に穴がある。



ドーナツの穴の話。


その穴を語るため、同じくして外周が語られている。



通り過ぎてゆくものに、話を戻す。

スクロールする、というのは、不思議なことである。

自分でスクロールさせていても、通り過ぎてゆく、という感覚がある。

カマウチさんのこれらの写真は、先の文章に橋を架けているような姿勢はとっていないにも関わらず、今回語られている事が、まさに穴の事であるがゆえに、文章が担う半円の残りの半円を描いていて、やはりそれで、穴を描いている。

何ぞ、と覗くその穴をこしらえて、わたしたちが覗き込むのを待っている。

外周が区切りとる真ん中の空気を見つめさせる事。

実際にはそこには穴があり、実際にはそこには何もない。

通り過ぎた何かを実際に確かめずとも、見当をつけることができるわたしたち。

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