エキセントリックが普遍を射る瞬間、ということを考える。
中心を射ることが出来るのは外周に位置する者だけである。
変人と揶揄されるカナダのピアニストが弾いた「奇矯な」バッハが、古色蒼然に思われていたその楽譜に新たな命を吹き込み、音楽というものの根底を揺さぶるような力を掘り起こした。その力はバッハの譜面の中にすでに描かれていたのだけれど、「中心」にいる人達にはその力がもう見えてなかったのだった。
もちろんグレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」(1981) の話をしているのですが。
(たとえが古いのはオッサンなので許してほしい)
奇矯、といえば、矢野顕子だって「なんであんな変な歌い方するの?」と『春咲小紅』の頃言われてたものだが(あいかわらず昔のたとえで申し訳ない。これまた1981年)、何も彼女は奇をてらって歌っているわけではないし、だったら「普通の歌い方」って何よ、という話になって返ってくるわけである。
普通の歌いかたって何だ?
そんなものありっこないのである。ありもしないものについて人は平気で話す。ドーナツの穴の罠である。
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音楽の話に限らない。
ダイアン・アーバスの撮った「外周の」人々のポートレートが、我々の心臓のど真ん中をブチ抜いて、ごっそり持って行ってしまう。
彼女の撮った外周の人々は中心を射抜き、彼女が撮った「中心(にいるはず)の」人々の顔は、なぜか外周の人々よりも狂気を帯びて見える。中心からの距離が完全に攪乱されている。
ドーナツの穴は外周なくしては見えないのだった。