フランス語で「水面」は “la surface d’eau” という. “surface” は表面、”eau” は水を指す.どちらも女性名詞.
日増しに暑くなってくるので、涼しい水辺が恋しくなる.
19世紀終わり、モネは二人目の妻となるアリスとその娘たちを伴いジヴェルニーに移り住んだ.そこはセーヌ川の支流が多く流れる水の豊かな村で、人々はこぞって舟遊びに興じた.移動を容易にする蒸気機関車の登場で、都会っ子たちがパリの喧騒を逃れ、田舎で羽を伸ばすのが、すっかり主流となっていた時代だ.
1887年に描かれた作品では、キャンバスいっぱいに晴れの日の水面が広がり、その上に浮かぶボートが絵を二分割している.上部にはブルーの空に薔薇色の雲、下部にはボートや娘たちの影が映った焦げ茶や紫、群青の川が見える.小舟で戯れる娘たちは、空と川両方の色彩を、その帽子に、ドレスに、髪に、ベルトに、手袋に持っていて、全体と美しく調和している.優しい調和は、観る者の心を水彩のように溶かしていく.
この地を気に入ったモネは、ジヴェルニーに家を買い、かの有名な「庭」を作っていく.描かれる対象が家や庭に限定されたことで、彼の絵画はより精神性を増していくことになる.
ノルマンディー地方では珍しいアヤメやグラジオラス、葦や竹、日本の太鼓橋など、画家にとっての理想郷を構成するものたちが集められ、光と色の調和を目指して配置された.その中でも、睡蓮の池は色彩とニュアンスや、水鏡とそれが反映する世界を探求する格好の対象だった.
1907年の「睡蓮」は、ほぼ正方形の作品で、水面の一部がクローズアップで切り取られている.左下から右上に、そしてまた左上に…リズミカルに睡蓮を配置することによって観賞者の視線を誘導し、限られた画面の中に果てしない奥行きを意識させる構図だ.
繁殖する植物の中で、水平線は消え去っている.モネにとって、池は精神的な絵画追求の空間となっていったのだった.始まりも終わりもない自然の連鎖の中で.
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美しい水面を求めて本屋をさまよっていたら、 Maria Svarbovaの “Swimming Pool” という写真集に出逢った.(ウェブサイトも美しいので、是非観て欲しい.)
この写真集は、スロヴァキア国内の、10都市にある10施設のプールで撮影されている.
大きな構造物に、小さな人物の構図が多い.モデルらはプールの中や水辺、乾いたフロアや明るい窓辺など、色々な場所に配置されている.一人の時もあれば、三人の時もあり、まっすぐに立ってこちらを見つめていたり、ベンチに腰掛けていたり、階段を登っていたり、飛び込み準備をしていたり、首から上だけを水面に覗かせていたり、すべり台に頭を突っ込んでいたりと、ポージングも様々だ.
このPoolシリーズは、機能主義建築の美しさが存分に生かされている写真群で、プールという馴染みのある場所で撮影されているにも関わらず、無表情な人物たちが佇む光景は非日常的で舞台的だ.徹底的に装飾を排除されたプールは、陽の光がたっぷり入るように設計されている.見ているだけで、気持ちがいい.
共産党政権の影響下にあった場所であるにも関わらず、彼女の写真からは陰鬱なしがらみを感じない.機能主義の建築は、マーリアの純粋な妄想、遊戯の場へと昇華されている.
波一つないプールの水平、その縁に赤い水泳帽をかぶった女性がまっすぐ佇む姿.それは、ブルーのソーダ水に真っ赤なさくらんぼが浮かんだ、あのノスタルジックな喫茶店の飲み物を思わせる.
どの写真もビビッドな色が入り込んでいるのに、澄んだ気持ちで眺めていられる.人工の照明を一切使わず、あくまでも太陽光でのみ撮影しているからだろうか.褪せたラムネのような色が基調となっていて、切なさと穏やかさが混在している.
彼女の写真では、人やものが透き通っていて、水に映る影と地続きだ.実像と虚像に同等のつよさがあり、あちらとこちらを分けることの無意味さに、心が解放されていく.
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「ブロッター」ピーター・ドイグ、1993年、リヴァプール国立美術館
スコットランド出身の画家、ピーター・ドイグの絵も、虚像と実像が同一画面上に混在している.
現在、東京国立近代美術館で開催中の大回顧展では、100号サイズの絵画が30点以上も世界中から集められていて、圧倒的な見応えだった.ドイグは、20世紀後半、絵画が半ば「古い」と見切られ、ダミアン・ハーストなど多くの若いアーティストがインスタレーションや彫刻などのメディアで制作していたときに、あくまでも絵の可能性を模索し続けた(し続けている)人だ.
特に初期(1990年代〜2000年代初め)の作品では、水辺のモチーフが多く登場する.水面に映った風景のほうが実像よりも鮮明だったりして、明確に区切られない画面に、夢を見ることが止められなくなる感覚を覚える.
舐められたドロップキャンディーのような石垣に縁取られる夜のダム湖.それは星が落ちてきたように、深くしずかにキラキラしている.繰り返し繰り返し塗られ、積み重なった半透明の絵の具の層により、暗さの中に輝きが生まれている.
画面全体が同じトーンで統一されることで、空も湖も遠くの森も手前の道や木々も、中心のおどけた人物たちも、すべてが地続きで、まるで現実感がない.
彼の絵を前にすると、最初は人物やカヌーが目を引くが、画家が仕掛けた緻密なトリックによって、焦点はどこまでも画面を彷徨うことになり、着地点のないまま、心ごと抜け出せなくなる.そこには、自由で心細くて、心地よくて終わりの見えない、静かな狂気と祝祭の、麻薬的な視覚の快感があるのだ.
ドイグの水は自由だ。行進するキャラバンのラクダのような影も見えるし、月の反射のような綿あめのような白い雲もある.線香花火のような赤い火みたいな旗の影のような、目を引く激しい点々もある.描かれる水面や雪の景色は不安げだけれども、たくさんの光を捉えている.現実にあるものもないものも.
意味の輪郭がはっきりしないということは、安心感と不安感を同時に喚起する.両方を携えて生きていくのは、容易いことではない.けれども、どちらも捨てることなく進んでいく人にしか捉えられない美しさが、この世にはあると思う.
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河瀬直美監督の『2つ目の窓』(2014)は、海が舞台の映画だ.
夏、友人に連れられて行った名古屋の映画館で観た.その日はお寺で目覚めて「朝食よりもまずは映画!」と二人で出かけたのだった.取りこぼしのないように目を見張り、耳をそばだてて、頭を最大限冴えた状態に保つことに集中した二時間だった.
海はメタファーとして優秀で、女、死、命、セックス、出逢いなどが終始示唆されており、最初のカットから生々流転を予感させる映画だった.
恋愛や死という要素は、物語の中で相応のインパクトがあり一大イベントになりがちだ.しかし『2つ目の窓』では、ごく自然に、あっさりと魂が抜ける瞬間が描かれていて、その様子がとても綺麗だった.家族愛に飲み込まれがちなシーンも、ユビキタスな自然や魂、気に満ちていて、人間臭さに酔わずに済んだ.
河瀬組は何度か通訳でお仕事をご一緒させていただいていて、その度に、修行とお参りの両方をしているような気持ちになる.自分の身ひとつでは日々がままならないとき、水辺に出かけて波風の音に耳を傾けたい.自分の心を自然に返す為に.