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3F/長期滞在者&more

降れば降るとき

長期滞在者

写真というのは「降ってくる」ものである。降ってくるものを、あやまたず拾い上げる準備だけが求められる。テクニックが必要だとすればそれは「準備をしておく」ということだけだ。アンテナ張って降ってくるのを待つ技術。これは写真を撮る人だけの話ではないだろう。音楽を作る人にも、絵を描く人にも天啓のように降ってくるものがあるのだと想像する。ショパンだったかシューベルトだったかシューマンだったか誰か忘れたけど(シュとかショで始まる誰か)子供の頃読んだ本の中に、街を歩いているときに素晴らしいメロディが閃いたが手元に五線紙がなく、カフェに駆け込んでペーパ-ナプキンに五線を引いて曲を書きなぐったという逸話があった記憶があるが、このまえNHK朝ドラの『ブギウギ』を見ていたら草彅剛演じる羽鳥善一(服部良一がモデル)が同じことをしていた。降ってくるものは捉まえねばならない。煎じ詰めれば音と時間の組み合わせの芸術である音楽というものは五線紙に縫い付けなければ儚く空間に霧散してしまう(今ならスマホに向かって歌うという手があるか)。ところで『ブギウギ』、もう終わっちゃうけど素晴らしかったですね。趣里も草彅剛も最高。ワクワクし通しの半年間でした。滅多にドラマ見ない僕がこの『ブギウギ』だけは録画までして逃さず見ていた。ちなみに「福来スズ子とその楽団」でギタリスト役の国木田かっぱさんとドラマー役の伊藤えん魔さん、実は僕は昔彼らと一緒に舞台に立ってたんです、ミュージアム原始願望という劇団。ああ、僕も舞台を続けていれば、えなりかずきの代わりに福来スズ子の後ろでピアノ弾けてた可能性もあるな(夢想)。朝ドラの話をしたいのではなかった。写真も、降ってくるものをあやまたず拾い上げねばならないのだけれど、こう書いてしまうと写真というのは天啓と幸運がすべて、みたいな意味に誤解されそうだ。そうではなく待つ側の準備というのが肝なのであって、それは別に常に必ずカメラを携行していること、それが常に撮影可能状態にあること、という具体的なキャプチャーの話ではない。いや、それも大切だな。僕らはよく凄いものが撮れてしまった時に「写真の神様が降りてきた」などと言うことがあるけれど、そもそも依代(よりしろ)たるカメラを持たぬ者に神は微笑むのかというと、微笑まれてもカメラ持ってなきゃ神様はお出ましにならない。違うな。持ってないときに限って意地悪くお出ましになったりするな。幾度も経験あり。涙。えっと何の話だったっけ。そうそう、準備というのはカメラが臨戦態勢にあるかどうかだけの話だけではないと思うのだ。降ってくる天啓と、受け取る側の精神とがパズルのピースのように嵌らねば写真は生まれない。写真家佐内正史が若い人へのアドバイスを、と求められて「薄着、かな」と答えたという話が僕は大好きなのだが、写真撮るのに服装関係あるか? と考えてみれば、いやあるよね。佐内正史はダウンの下はTシャツだけがいい、と妙に具体的に指示してるけれど、Tシャツとダウンジャケット? 極端だな。でも何かいいヒントな気がする。もちろん薄着で街に出ればいい写真が撮れるのかどうか一見意味不明だが、でも多分そういうことだよ。着ぶくれしてたら視神経を澄まして歩けない。ある種の比喩でもあり、そのまんまの意味でもあるだろう。精神と肉体。視線と皮膚感覚。降ってくる写真というのはその時その時、スパンを大きく考えれば年々、もっと大きくすれば二十代、三十代、四十代、五十代、積んだ経験や知識や美意識的な感度などで大きく変わるのだけれど、いろいろ積めば積むほど良くなるという話でもないからそこが厄介だ。積んだ経験が邪魔をするということもある気がする。これ、前にも遭遇したけど案外絵にならないんだよね、ってお前、絵になるとかならないとかそういうことでシャッターボタン押す押さない考える時点で終わっとるがな。絵にしたいなら絵を描けよ。などと経験を積んでしまった老いた僕と、熾火のように芯に残った写真の神を待つ僕が頭の中で格闘を始める。いやむしろ、経験というのは邪魔にしかならないのかもしれない。神の降りる隙間を経験が塞ぐ。三十数年写真を撮っているが、自分で今でもいいなぁと思える写真はこの期間のちょうど真ん中あたりに多い。一番写真の神と交信できていたのがその頃なのかもしれない。今写真を撮っている人はキャリアの15年を越えたら気をつけたほうがいいかも。そこからどんどん写真が経験によって蝕まれていくから。受容体としての自分は常に更新しつつ、写真に関する経験や、手垢のついた叙情はとりあえず忘れる。難しいことだが、そうしなければならないのだろう。口で言うのは簡単だ。カマウチにだって言える。百回見た景色を、千回会った人を、今初めてその前に立ったように撮れるか。写真って、本当はそういうことだよね。てんで出来ていないけれど、そういうことだということだけはわかるのだ。この「わかる」すら経験として写真を阻害してしまうことがあるのがまたアレなんですけども。見たこともない景色を見たくないか。畢竟そこだ。見たいよ僕は。しつこいようだが見たこともない景色とは風景のことではないからね。人物を撮っているときでさえ見たこともない景色が見たい。そういう意味です。ところで佐内さん、夏は何着ればいいんでしょう。良い写真は寒い季節にしか降りてこないのか。なわけないが。もう冬が終わってしまうね。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

作り手にはよく使われることばである、「降ってくる」とは。
今回は主に写真の撮り手で話を進めているけれど、作り手には皆なにかしら共通するものがあるではないだろうか。

自分自身も時折は「アッ、降ってきた」と感じることもあったけれど、その正体とか、どうすれば降ってきたソレをちゃんと捕まえられるのかなんてことについてはあまり考えたことがなかったなぁと今回記事を読みつつ感じていた。

「降ってくる」とは?ということについていま一度思いを巡らせて、次にまたいつか降ってくるその時をどう迎えるのかわからないけれど、迎え撃つ気持ちを準備するのはいいことなんじゃないかしら。

「降ってくる」何かしらの存在を意識したことのある人はぜひご一読を。

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