・・・・・・
7〜9年前の写真のベタ焼き(ネガをそのまま全コマ印画紙に密着プリントしたインデックス)の束が出てきたので、久しぶりにしげしげ見ていた。
僕の写真で「面白さ」という尺度でいうならば、おそらくこの時期に撮ったものがピークなのだと思う。昔の自分の写真を見て「面白い」と思うのはなかなか複雑なものなのだけれど(写真にとって「面白い」とは何か、という肝心な定義はとりあえず曖昧なままに放置する)。
人間の体を構成するアミノ酸が数ヶ月で全部入れ替わってしまうように、写真機のシャッターボタンを押す契機となる自分の中の「叙情」成分も、順繰りに排出されて入れ替わる。写真を撮るということは新しい叙情成分を取り込むということだから、新たに取り込まれた叙情の量だけ自分の中の「叙情の総体」が排出も伴いながら更新されていく(叙情の動的平衡と呼ぼうか?)。
だから普通に考えれば、写真を続ければ続けるだけ「叙情の質」のようなものが鍛錬されていく・・・はずなのだが。
そううまくはいかないのである。
長くやっていれば「叙情の質」は鍛え上げられる。しかし、とまらない「叙情の更新」の中で、「排出された叙情」がシャッターボタンを押す契機を奪っていく。もはやこの叙情スイッチではシャッターは切れない、という場面が増えてくる。写真を続けるということは、そういうことでもあるのだ。
続ければ続けるほど狭い土地(自分の叙情容量)からの収穫(結果としての写真)が減る。どんどん写真が不自由になっていく。自分の中の「叙情の循環」が十全に機能しないのである。
今まで撮ってきた写真が、これから撮る写真を縛る。身動きがとれなくなる前に新しい地面を開墾しなければならない。
「写真」の本当の意味は、本来この開墾作業の方にある。まだ見ぬ世界へ鍬を振るうこと、それが「写真」だ。
念のため書くけれど、もちろん「新しい撮影場所を探す」ことではないよ(笑)。
自分の中の叙情成分を常に疑う。真っ直ぐにものを見る。視線の光軸を曲げてしまう古い美意識から逃れようと足掻く。
昔は、こういうときは千本ノックのように写真を撮ればいいと思っていた。最近はむしろ、カメラを持たない時間を大切に使った方がいいのかも、とも思う。
古い写真を見直して、いろいろ考えることが多かった。青臭い写真も多いけれど、勢いはあるし、なにより対象のさらにその向こうを見ているような真っ直ぐな感じがする。
最近の僕はどうにも理屈っぽすぎるのである(この文章も含めてね)。
写真とは自分の不自由と戦うことである。
屁理屈はいいから次の土を掘れ。という話なのである。