時間というものについて、いろいろ考えるようになった。
現在という一点があり、それは常に先につらなる未来の時間を食いつぶしながら進行していく。
過去は進んだ航路から置き去られて後ろへ消えていく。
・・・と、つい歴史年表のような直線的な時間進行をイメージしてしまうが、もしかしたら過去は一直線に過去になるのではなく、過ぎた途端に散らばって拡散してしまうのかもしれず、現時点からどれくらい過去か、というスケールはなくなってしまうのではないか。等。
リー・フリードランダーが自分の家族を撮った写真集があって(『Family』)、若いころのフリードランダー、年をとって象のように太ったフリードランダー、痩せていた若いころの父親そっくりのフリードランダーの息子、が同じモノクロ写真というフォーマットで並ぶのを見ると、時間の流れが混濁して、過去がバラバラに併置されていくような不思議な感覚にとらわれた。
昔の記憶ほど鮮明で最近になるほど記憶が曖昧になるのは、何も脳の劣化とかではなく、それが正しい時間のあり方だからかもしれない、というのは半分だけ冗談だけれど、実際、現在と個別の過去との「距離」の差には本当は何の意味もないのではないかと思えてきた。
色のないモノクロ写真は余計に時系列という縛りから放たれやすい。めまぐるしく出力形式の変わる現代ではなく、数十年単位で同じ写真感材が使用可能だった時代のせいでもあるだろう。家族の歴史のはずなのに、その写真集には時の直線というのが見事に霧散していた。ページを繰るほどに、時間というものがわからなくなっていく。
この写真集の中で、時間は重なり合い、てんでバラバラな方向へ向かって好き勝手に流れながら、同じ色で、同じトーンで、もっと大きな時間の網で包み込まれている。時間とは何か、年を経るとは何か、という問いすら曖昧に溶けていく。
ほんとうに、時間とは一体何なのだろう。
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そもそもが、まさに現在この「瞬間」、という感覚を、人は写真の発明以前から持てていたのだろうか。
瞬間を写真に定着できるようになってはじめて現在が「瞬間」であるという考え方が生まれたのではないか?
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そういえば高校で美術教師にクロッキーを教えてもらったときに、モデルが動いたら動いたなりに、そのまま連ねて描き続けろ。手元を見るな、モデルの動きを目と手で追え。画面をはみ出してもかまわない。絵としての整合性なんか忘れろ。と教えられた。いい先生だったな。
絵を描く人にはもともと「瞬間」という考え方じたいがないのかもしれない。すべてが流れの中にある。
いくぶんの過去と、もしかしたらいくぶんの未来をも含んだ時間の幅を描きつけていく。写真では考えられない世界だ。
溪斎英泉の浮世絵とか、全然人物を俯瞰的に見てなくて体の各パーツをそのときどきの興味の重みで描いていくから人体としてのバランスがイビツだけど、そこに艶かしさが宿っているのだ、という話も読んだことがあった。
英泉の描く人体がイビツなのではなく、瞬間という考え方の方がイビツなのかもしれない、と考えたとき、写真という装置の異妖さが顕わになる。
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ところで、先だっての2月と3月、勝山信子さんと二人で写真展を開催していたのだけれど、写真展なり何なり、ひとまとまりにした物量の表現物にはタイトルやステートメント(説明書き)が必要であるという慣習により、気が進まぬながらもそういうのを考えなければならなくなった。
本当は写真なんて見ればわかるし、もしくは「わかる」必要なんてない、ともいえる。
せっかく野に放った情動を言語の檻に閉じ込める方が理不尽ではないか、という思いから、僕はタイトルも能書きも本来不要だと思っている。
言語の檻に閉じ込めることが「わかる」という意味ならば、そもそも「わかる」必要もない。
実際、写真展のタイトルなんて「写真展vol.1」とか「#02」とか「その3」とか、そんなのでいいと思っているのだが、人と話すときに「2のときの写真がね」「2ってどれだろ」「ほら四ツ橋でやったときの」「あれ3じゃなかった?」とかややこしくなるのも不便なので、引き出しにラベルを貼る程度の利便のために、一応タイトルはつけている。
ちなみに僕が今まで自分の展示につけたタイトルは『風景について』だとか『重力と叙情』だとか、ある意味代替可能な記号のようなものばかりである。内容に無関係な言葉ではないけれど、写真を邪魔しない程度の、あえての浅い抽象性&汎用性、意味の引力の弱さをこころがけている。
今回の展示のタイトルを『時間を解剖する』としたのは、たまたまそのとき読んでいた福原信三の古い写真論の中に、「解剖された時間は時そのものではない」という一文が出てきたからだ。
このセンテンスの、論中における意味合いとか、そういうのをすっとばして「解剖された時間」という語句だけが脳内に飛び込んで来て、いいなと思った。その、本のページから網膜に直接ダイブしてくるような字配りが、何か写真的だと思えた。こういう直感は信用して良いように思える。
もう少し前を含めて引用すると、
「私達は時計によって時の流れを知るが、決して時の流れそれ自身を知ることはできない。時の流れを知ろうとする瞬間はすでに反省が出てきて、時そのものを解剖しているのであって、解剖された時間は時そのものではない」
写真芸術は時間を表現できるのが他ジャンルから画する特徴であるといわれることに対して、福原信三は否定的な意味合いでこの文言を書いているのだが、彼の真意はこの際関係なく、この切れ味のあるセンテンスだけを囲って使わせてもらうことにした。
時を知ることなどできないが、とりあえず時を解剖して見せることができるのが、言われてみればたしかに写真というものの特性のひとつだ。時そのものではなく、時の解剖図だというのが肝である。
結局あるのかないのかもわからない「現在」という点(を含んだ「時間」)を解剖して目の前に提示する作業。時の切片がバラバラに積み上がった中に立っているという自覚。
そうだ。写真とはたしかにそういうものだ。
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『時間を解剖する』(2016.2〜3 Gallery LimeLight / Osaka)より