大阪・谷町8丁目交差点の坂の下にある伽奈泥庵(カナディアン)は、創業50年を超える、大阪の、いや多分日本の、エスニック喫茶の草分けである。
今でこそインド風の煮出したミルクティ「チャイ」は日本でも全国区の飲み物になっているが、最初にこれを日本に紹介したのは伽奈泥庵とカンテ・グランデ(大阪・中津)だった。
僕はカンテ・グランデの方で働いていたのだけれど、伽奈泥庵にもよく通った。
自分の成人式の日に、今は某書評サイトのボスをやってるK澤氏と一緒に、式典なんか出ず、この伽奈泥庵で一日文学談義とかしてたことを思いだす。
あれから30年。
なんと伽奈泥庵が閉店するという。
正直最近は年に一度、行くか行かないかくらいの頻度にはなっていたけれど、なぜだろう、伽奈泥庵なんて、地球が滅ぶ日までなくならないと勝手に思っていた。
地球はまだ滅ばないのに伽奈泥庵がなくなる。
伽奈泥庵のあの野菜カリーが食べられなくなる。
人間誰しも、地球が滅ぶ前に死ぬ。
だが、自分が死んだあと、地球が滅ぶまでの時間を想像できない。自分がいないのに世界が続く不思議を、実感として理解できない。
しかし実際、伽奈泥庵は地球が滅ぶ前になくなってしまうので、僕もそうなのだ、ということを改めて噛みしめてみる。
店はなくなる人は死ぬ。
なんか大げさな話になってきたが。
伽奈泥庵があり、自分の働くカンテ・グランデがあり、以前心斎橋にはガネーシュというチャイ屋もあった(他にアメ村のモンスーン・ティールームとか大正のチャイ工房とか)。
20代の頃、チャイなんて職場のカンテでも家でも作れるものを、なぜかしょっちゅう伽奈泥庵やガネーシュに出かけて飲んでいた記憶がある。
たかだか牛乳で煮出した紅茶じゃないか、とか、そういうものではないのだ。
大阪ではかつてチャイが飲める店、という空間が、普通の珈琲店的喫茶店とは文化的様相を異にする立ち位置にあり、そこで働く人も美術系や音楽系や服飾系といった、ナナメ気味の人たちで占められていた。
カフェ、という言葉が一般化する前である。エスニック・カフェと呼ばれる前はエスニック喫茶であり、僕らにとっては単に「チャイ屋」だった。
カフェという言葉が一般化するにしたがって、チャイ屋も少しずつ毒気(?)を抜かれていった気がする。
マルビルにスターバックスができたのでカンテが苦戦している、なんて話を聞いてびっくりしたものだ。
そもそも競合相手だという認識すらなかった。え、カンテは「カフェ」だったんですか?
僕は大学をやめてミュージアム原始願望という劇団で舞台に立ちながらカンテ・グランデでアルバイトをしていたのだけれど、劇団が突如解散してしまい、舞台にも立たない「ただのアルバイト」になってしまった。
バイト仲間はみなミュージシャン(ウルフルズの面々もいた)や絵描きや服飾の学生だったりで、「ただのアルバイト」になってしまった自分に何だか劣等感を抱いたものである。
以前別の話で書いたが、このカンテの広報物のデザインを担当してたK原さんという人に、僕はカメラを買うためのアドバイスを受け、写真の基礎を教わった。
彼が僕に教えた「写真の基礎」とは
「シワだらけの老婆の写真撮って、タイトル『年輪』とかな。そういう勘違いだけはすんなよ」
という一言だった。
素晴らしい教えだと今でも思っている。
カンテを辞めた僕は写真の仕事に就いた。
カンテのバイトをやめてもう25年が経った。20歳から26歳まで、6年も働いていたのだけれど、よく考えれば僕はカンテ・グランデの45年の歴史の中で「前半の人」になっている!
今でもよくカンテに行く。伽奈泥庵の野菜カリー同様、カンテのチキンカレーも素晴らしい。
僕は自分の通った高校やら大学(中退ですが)にはまったく愛着がなくて、卒業校に対する愛校心のやたら強い人(K学院出身者とかね)の気持ちが全くわからないし、同窓会的なものにも行ったことがない。
よくよく考えたら不思議でも何でもなくて、実際、僕はカンテの6年間で、学校で学んだことに倍する色々を学んだのだろうと思う。
正直、学校には何の恩も感じないが、カンテや伽奈泥庵や、そういう場所で出会った人にはいろいろ感謝しているのである。
(もうすぐ閉店してしまう伽奈泥庵)