ひと頃、岡本綺堂の怪談集に夢中になった。
光文社文庫から出ているものを何冊か買ってきて読み出したら、これがベラボーに面白い。
だが面白いのとは別に、違和感も感じた。
「何これ、リライトものなの?」
文体が新しすぎるのである。
『半七捕物帳』を書いているという印象から維新より前の生まれかと思ったが、調べてみたら岡本綺堂は明治五年生まれだ。
江戸の人という思い込みもあったので余計になのかもしれないが、あまりに普通な現代文が目に飛び込んできてびっくりした。それで「現代語訳」なのかと勘違いしてしまったのだった。
というくらい岡本綺堂の文体は古びていない。
夏目漱石より八歳年下だが、大ざっぱに同年代と括っていいだろう。
いま漱石の文章を読んでもそれなりに経年の古臭を感じる。『行人』とか内容的には今でもスリリングで好きなのだけれど、文体ということに絞って言うならば、漱石はやっぱり「明治の作家」だなぁと思う。
なのに八歳しか違わない岡本綺堂の文章は、おととい三十代のライターが書いた、と聞かされても信じてしまいそうな、完全に「現代」の文体なのだ。とりたてて名文でもないけれど、今の時代に照らしてもまったく違和感がない文体。
これら怪談集たちが書かれたのは大正末年前後である。これが九十年経った文章なのか?
岡本綺堂は夏目漱石のように日本文学史の大通りを胸そらして闊歩してきた人ではないし、美文を書くというのならば例えば泉鏡花(岡本綺堂の一歳下)みたいな人が当時は褒めそやされたんじゃないかと思う。
しかし漱石の文体にある程度の苔がつき、泉鏡花的美文がもはや時代の彼方へ去ろうとする中で、なぜに岡本綺堂は鮮度が褪せないのだろう。
彼が新聞記者だったから?
新聞の文体は「文芸」ではなく、記事として読まれる平易さを求められる。しかし、岡本綺堂よりももっと新しい時代の、たとえば第二次世界大戦中の新聞記事等を何かの史料として目にしても、岡本綺堂ほどには「現代」的じゃないし、けっこう今の目からすれば読みにくいものである。となると「新聞記者だから説」もあやしい。
岡本綺堂だけが突飛に新しい理由がわからない。
彼の本職は戯曲作家なので、話し言葉に巧みであり、それにつられて地の文も平易に書かれるようになったのだろうか。戯曲は読んでないのでわからないんだけど。
実際のところ、岡本綺堂が「新しい文体」を作り上げたわけではなく、いろいろ出てきた口語文体の中で、岡本綺堂のラインが「残った」のだろう。
装飾的要素の少ない平明さで、文章の幹の部分だけで書くような潔さのせいだろうか。もしくは古びるのは枝葉の部分であって、幹としての日本語は明治期に口語文が書き言葉として定着して以来、実はそんなに変化がないということなんだろうか。
だからといって、岡本綺堂の文体が「日本語の王道」だとか、そういうことじゃないと思う。
そういう「王道」感が皆無なのにシレっと現代の日本語のど真ん中にまだ居る、っていうことが素敵すぎる。
この怪談たちが書かれてから九十年余、日本語はいったい何をしてきたのだ?
読めば読むたび、内容の面白さはもちろんだが、この文体の不思議に引き込まれる。
と、綺堂怪談が好きなだけのド素人が(しかも怪談ばかりが好きで『半七』もちょっとしか読んでない。すみません)偉そうにつらつら綺堂礼賛を書いてきたのは、実は昨日、本棚の隅から未読の岡本綺堂怪談集を一冊発見したからなのだ!
光文社から刊行されているものはとっくに全冊読んだと思っていて、今まで読んだものを何度も何度も再読していた。物故作家は新作出ないからつらいなぁ、とか思いながら。
そこに未読が一冊! 買ったまま忘れてた一冊! カバーつけてたので気づかなかった!
うっひょ〜!
なんという迂闊。しかし嬉しすぎる迂闊!
自分の迂闊な性格にも、今日だけは礼を言いたくなるこの幸福。
今から読む!