3年ほど前から、タイヤが小さいながらも、なかなかにスピードが出る自転車に乗っている。
同居人の親友から譲り受けたものだが、サイズ感も手入れのしやすさも、凝り過ぎることなく自転車ライフを手頃に楽しみたい私にはぴったりであった。
また、偶然にも、チェーンロックの4桁の番号が私の誕生日と同じ番号であった。元々の持ち主が、とあるテクノユニットの片方のメンバーの誕生日をチェーンの解除番号にしていたようだが、そのメンバーと私が同じ誕生日だったというオチだ。
今年の頭に川沿いのアパートメントに引っ越してから、自転車に乗る機会が増えた。テレワークが続く中、仕事を早く終わらせた日には夕方6時頃から河川敷をサイクリングしてリフレッシュしてきた。
そして、その時間に自転車を漕いでいると、行きはまだよいが、帰りは薄暗くなる。これまでは、前の持ち主が付けていた簡易的なライトをそのまま使っていたが、この間ちょうど電池が切れたため、前方と後方のライトを交換することにした。
交換する際に、サイクルストアなどのお店で手に取って気に入ったものを買うという発想が頭の片隅に浮かぶこともなく、自然の流れのようにオンラインストアで評判の物を購入した。
Amazonなどの通販に慣れてしまうと、荷物が届いたときのワクワク感が遠ざかっていく。実際このランプが届いたときも、特にテンションが上がることもなく、箱を開けるのも少し億劫になり、1週間ほど放置していた。
そして、つい先日、雲一つない晴れ渡った日に仕事が早く終わったので、少し遠出のサイクリングをしようと、ようやくランプの箱を開けて、午後6時頃に自転車にライトを取り付けて出発した。
普段ランニングコースとして活用している道の、ランニングの際には引き返す地点をそのまま通り越して順調に進んでいると、自転車に取り付けたばかりの前側のランプが無くなっていることに気付いた。
結束バンドは付いたままなので、ランプだけどこかに落としてしまったようだ。
まったく出番が無いまま落としたため、思い入れなど一切ないが、一度も使わずして失くすのは虚しすぎると思い、血眼になってこれまで来た道を猛スピードで戻る。
さっきまではリラックスするようにペダルを漕いでいたのに、 突然真剣な顔つきで一目散に漕ぐ。
が、見当たらない。
冷静になって考えてみると、「無い」と気付いた場所の近くに落としていた可能性が高く、またどうせ戻るのであれば、猛スピードではなく、ゆっくりと左右に目を光らせながら戻った方が見つかる可能性は高まるだろう。
ただ、コロナで外出機会も減る中、落とし物自体が大変久しぶりのことで、冷静になれずに無鉄砲に探し回り、徐々に空も暗くなってきた。
そもそも暗いときに必要であるライトそのものを落としているため、探す術もなく諦めるしかない。そのまま家に戻った。
翌朝、諦めきれずに同じコースを自転車で走った。昨日よりもさらに真剣に左右に視線を落としながら探した。しかし、結局のところライトは見つからなかった。ただ、改めて探し直したことにより、ライトを失くしたことに対する踏ん切りが自分の中でついた。
その2週間後、たまたま寄ったアウトドアショップで、自転車用のライトが手頃な値段で売られていたので購入した。今度は、前回の教訓を生かし、結束バンドをしっかりと車体に縛り付け、何度も抜け落ちないか確認した。
私の住んでいるアパートは目の前が河川敷になっているのだが、その河川敷へは一度階段を登らないといけず、自転車の場合は持ち上げて運ばないといけない。私の自転車は軽量タイプなので、肩から担ぎ上げるように階段を上り、河川敷に車体を着地させると、着地の振動でテールライトが車体から外れて道に転がった。
「えっ」という驚きの気持ちと共に「気付いてよかった」という安堵の感情も加わる。テールライトを改めてしっかりと縛り直し自転車を漕ぎ始める。
川沿いを走り続け、いくつかの橋を超えていくと、前回の記事で登場した三角地帯にぶち当たる。サウナに入りたいなという気持ちを抑えつつ、三角地帯の一つの「お風呂の国」というスパの前にある横断歩道を渡り、さらに先へと自転車を走らせる。
そして、そろそろ川沿いでは無く街の方へと自転車を寄せて行こうかなと思い、地図上で現在地を確認するために短パンのポケットからスマホを取り出そうとしたとき、スマホがあるべき場所にないことに気付いた。
どうやら走っている最中にポケットから転げ落ちたようだ。
2週間前にライトを落としたときよりも、焦る気持ちが何倍にもなって押し寄せてくる。またも冷静になることができず、直ぐにいま来た道を猛スピードで駆け戻った。
左右に首を振りまくりながら猛スピードで戻るが、私のスマホは見当たらない。「もう少し先まで戻れば落ちてるかも」という甘い誘惑にやられて自転車を走らせ続けた結果、気付けば家の近くまで戻ってきていた。
出発した時点ではまだ心地よい天気であったが、次第に太陽が高い位置まで上がり始め、日差しは強くなり、汗も止まらない。
一旦、家に帰ってシャワーを浴びてから出直そうと思い、アパートに戻った。まずは水を飲み、シャワーを浴び、それからアイスコーヒーを氷で薄めて飲んで一息つく。
もしかしたら無意識のうちにリュックにスマホをしまっていたかもと思い、リュックの中を探すが案の定出てこない。エアコンを全開にして身体を冷やしてから、再び自転車に跨り、落としたときに辿った道と同じルートで自転車を進める。
途中、ポケットからスマホを落とす可能性が高そうなデコボコ道があり、特に目を凝らしながら進んでいたところ、バランスを崩し転倒してしまい、プラスチックの古ぼけた壁を右手で突き破ってしまった。急いで引っこ抜くと、右手の甲と掌の両方から血が出てしまった。水分補給用に持ってきたペットボトルの水を右手にかけて傷口を洗い、右手はハンドルに添えるだけの状態で再び探し始めた。
が、いくら探しても見当たらない。
念のため、スマホを落としたことに気がついた場所からほど近いところにあるスポーツセンターに行き、受付でスマホが届いていないか確認するが、届いてはいなかった。
これは紛失届を出すしかないなと思い、スポーツセンターの受付の人に近くの交番の場所を聞き、自転車で向かう。
交番の中は空で誰もいなかった。
交番の机に置いてある電話には張り紙があり、不在の場合は3桁の番号を押してくださいと書かれてある。その通りに番号を押し、電話口に出た係の人に事情を伝えて紛失届を無事提出する。落としたスマホの裏面には、遠藤賢司の赤いステッカーを貼っていたので、落ちていたら直ぐに私の物と判明するはずだが、残念ながらスマホは交番には届いていないよう。
交番を出て、スマホを落とした可能性のある道沿いへ、今度は歩いて向かう。ゆっくり歩いているときに、そういえばサイクリングをしている際に三角地帯のスパ「お風呂の国」の横断歩道で信号を待つ間に、一度スマホを取り出しGoogle Mapを開いていたことを思い出す。となると、この地点からスポーツセンターまでのわずか100mほどの間でスマホを落としたということになる。
わずか100mの間のどこかで落としたのに、10キロ離れた家まで引き返してスマホを探していたことがバカらしくなる。こういうときは冷静に、当時の状況を思い出すことが一番だった。
この100mほどの道を血眼になって探す。左側のポケットに入れていたことは記憶しているので、道の左側を中心にキョロキョロしながら歩いていく。この100mの道を往復していると、落ちているものに見覚えがあるようになり、また一種の愛着も湧いてくる。私のスマホは黒色であったので、道端に捨てられた黒いマスクやエナジードリンクの黒い瓶などがやたらと目に入って来る。草むらの下もしっかり探す。スマホのようなものがあったと思ったら、平たいゴムであった。
頭の中がスマホとそれに類したもので覆われると、すれ違う人の顔や通過する車の車種などはまったく頭に入らず、道に落ちている黒い物体のみが脳に入ってくる。目に入ってくる世界がこれまでとガラッと変わる。
念のために、最後にスマホを触った記憶がある横断歩道の傍にある三角地帯のスパに入り、スマホが落とし物として届いていないか尋ねた。しかし、やはりスマホは届いていなかった。炎天下動き回ったせいで腹がとてつもなく減っていたので、”おとなのダムカレー”というおそらくこのスパの名物であろうメニューの食券を買い、厨房のスタッフに渡した。周りのテーブルではサウナから上がった人達が美味しそうに生ビールを飲んだりしている。「呑気でええなぁ」という思いが込み上げるが、呑気になって何が悪いのか。スマホを落として無駄な時間を使う方が悪い。
番号を呼ばれて取りに行ったカレーは、どのあたりがダムカレーか分からなかったが、具にはブロッコリーとハンバーグが入っていた。カレーを食べながら、パソコンとポケットWiFiを取り出し、何かメールが届いていないかチェックする。また代替機を借りるにはキャリアにも連絡しないといけないのよなと思い、「スマホ&紛失」と検索する。すると、”スマホを紛失した際にやることリスト”というブログ記事に行きつき、そこには真っ先にGoogleアカウントを用いて”端末を探す”という項目が出ていた。
ただ、私は何も事前に設定した憶えは無いし、そんな機能使えへんやろうなと思いながら、試しに自分のアカウントで検索してみると、いま私がダムカレーを食べているスパの川向いにあるマルハンというパチンコ屋に私のスマホがあるという位置情報が表示された。
急いでスパを後にして、マルハンに向かう。中に入ると、制服を着たスタッフが近くにいたので、早速スマホの件を伝える。場内の騒音に負けじと大声で話したが、マスクをしたままなので相手にちゃんと伝わっているか不安だった。だが、どうやら伝わっていたようだ。すぐさまトランシーバーを使って、他のスタッフにスマホの件を伝えてくれた。この騒音の中通話できるのは余程トランシーバーの性能がよいのか、スタッフの耳が騒音に慣れきっているのか、、と余計なことを考えながら回答を待つ。
「本日、カウンターにスマートフォンが1台届いているようなので、直接カウンターに行って頂けますか?」
よかった、よかった!絶対自分のスマホや!と、必死にパチンコを打つ人達を横目に、軽い足取りでカウンターに向かう。
カウンターには、見覚えのある赤い「遠藤賢司」シールの貼ってあるスマホが袋に入ってカウンターに置かれていた。
ひと騒動もこれにて決着。コロナで落とし物をすることもガクンと減る中、久々に冷や汗をかく経験だった。
完全に自分で蒔いた種であったが、自分に褒美を与えたくなり、パチンコ屋から3分ほどの場所にある三角地帯の中で最もお気に入りのサウナに向かった。受付の人は私の右手を見て「好きなだけ持っていき」とバンドエイドを何枚もくれた。汗を洗い流し、シングル(10℃以下)の水風呂に浸かった瞬間、幸せが込み上げてきた。
サウナと水風呂を繰り返した後、外のスペースにある少し傾斜のついた寝風呂に仰向けになって青空とサウナの古びた建物を眺めていた。スマホに似た黒い物体に絞りきっていた枠から解放され、一気に視界が開けたような気がした。と同時に解像度は崩壊して、視界はフニャフニャしてきた。