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3F/長期滞在者&more

豆腐とロマンチスト

長期滞在者

水炊きの豆腐を取り皿の中で冷ますために四つ割りにしながら思い出したのは、たぶん小学校低学年か中学年の頃のこと。
同じように熱い豆腐を箸で切りわけ、冷ましていた。
豆腐は丸ままにしておくよりもいくつかに割っておいた方が早く冷める、という小学生なりの経験により、なんとなくそうしていたのだろうが、それを見ていた父が
「どうして豆腐は割ったら早く冷めると思う?」
と聞いてきた。
「知らない」
「割ったら豆腐の表面積が増えるから」
表面積、という、普段使わないけれどもなんとなく意味がわかるかしこまった言葉で、普段ちゃんとは説明できないがなんとなく理解しているものごとを説明されて、
「豆腐は割ると早く冷める = それは表面積が増えて熱の放出が早くなるからだ」
という「理屈」が、すとんと小学生の僕の頭に落ちてきた。

なぜかこの話は妙にインパクトがあって(だから今でも覚えているわけだが)、言葉で説明できないけれど、経験からなんとなくそうしていた時期と、言葉によって理屈が頭に入って以降では、同じ熱い豆腐を見ても、もうまったく世界が違ってしまったのだ。
表面積が増えるせい、という言葉を知らない以前の自分を、思い出すのも難しい。

ことばって凄いなと思うし、怖いものだとも思う。
豆腐の表面積が増えると早く冷める、という「ことば」は大事だが、できれば理屈を知る以前の「なんとなく」な状態でシャッターが押せたらな、という・・・唐突に写真の話になってアレなんだけれども、なんとなく、そういうことを思ったのだった。水炊きを食べながら。

・・・・・・

そもそも、たとえば一体誰が、色のこと、光のことを「わかっている」というのだろう?
光源から発した光が被写体に当たった、その反射光を人間は見ているにすぎない、ということだけでも、十全の意味で「理解」している人なんかいるのだろうか?
実のところ僕にはちゃんとわからない。そういう「言葉」を理解した気になっているだけである。

被写体に当たった光は、当然ながら四方八方に反射する。その四方八方に飛び散った光の、自分の眼球の方向に反射してきた光だけで、その人にとっての視覚的世界は形成される。
その四方八方の反射の結果をいろんな人間が共有し、共同幻想的に「世界」を構築しているということに驚きを感じるし、世界とはそういうなんだか頼りない土台に建ってるだけのものなのか、とびっくりする。

どこかの星の小さな王子にキツネは「大事なものは目に見えない」と教えるが、いや、大事なものもそうでないものも、無差別に飛び込んでくるから、大事かどうかわからない、というのが正しい。
それを無理に言葉に「翻訳」したものを、僕らは「見た」気になっていて、「大事なもの」は言葉で規定されて、とたんに大事かどうかもわからなくなってしまう。

もとから「言葉」の拘束力から逃げ出た光景にこそ、キツネが言うところの「大事なもの」は宿るのではないか、など信じている糞ロマンチストたちがいる。僕もその一人だ。

SDIM7392

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

無意識下での作業として、わたしは自分自身が視覚情報を言葉で認識する力が至極弱いのかなと思った。
もしくは逆で、カマウチさんが強すぎるのか。はたまた両方か。

「すべての風景 に、意味が立ち上がってくるよりも速いスピードで立ち向かう」事を考えるカマウチさんと、そこが決定的に違うのだと今更ながら。

わたしの場合、言葉は立ち上がってくるというより、わざわざ掘って湧かせるものだから。

つまり、言葉に置き換える必要のないものは無意識では置き換えられない。
(言葉にする必要のあることは身体に尋ねながら言葉に置き換えてゆかねばならない。)

認識のために使っている回路がまるで違うのだと思った。

言葉で規定されることで見えなくなるものというものは確かにあると思うのだけど。

カマウチさんの話す「大事なもの」の在り処とは少し話がずれてしまうかもしれないのだが、何故「なんとなく」を脱してしまった後に失われるものというのはあってしまうのだろう。
それというのはこういうことだろうか。

目の前のものを見ると同時に過去の経験からそれをいち早く認識しようと自然と脳は働く。

すでに認識している、目の前のものとは違う言葉というもの、つまりは類似品を自分の中に見てしまう。

思考・認識回路のショートカット、五感・六感を使わずに済ませる省エネと時短。

カメラを手にする者は皆、己の中には見ることができぬ目の前の風景を探しているというのに、皮肉なものだ。

それは経験学習という成果の賜物であるはずなのに、言葉通りの「一瞬」という時間を得る代わりになかなかどうして失われるものばかりなようではないか。

これには少々不等価交換が過ぎる思いがする。

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