つづき
本堂の手前まで来ると、母は「ちょっとここで待っといてくれへん」と言った。
「ええよ」
そのまま立っていてもやり場に困るので、母が本堂の中に入るのを見届けると直ぐに靴を脱いで、本堂に上がっていった。
本堂の中では、多くの人達が祈っていた。
人が祈っている現場を長く見ていると罰が当たると思い、長い廊下を歩いた。
廊下ですれ違う人達と会釈をしながら、まるで幼い頃から毎年ここに通っているかのように歩く。
参拝者が皆そうしていたように、本堂を降りる際には手を合わせて軽くお辞儀をして、また広場に戻った。
あまりきょろきょろ周囲を見回していても怪しまれると思い、広場でスマホをいじっていると、母が戻ってきた。
「お待たせ。行こうか」
先ほど歩いてきた商店街を逆方向に歩く。
T駅まで歩いている間、母の口数はあまり多くなかった。
ホームで10分ほど待って上り方面の電車の座席に座った後、母が口を開いた。
「晩ご飯、なに食べようか」
「そうやな、またサイゼリア行く?」
「サイゼやと途中で六甲道で降りないとないよ、家の近くのジョリーパスタにしよか」
「うん、そうしよ」
長旅の疲れからか、母も僕も寝てしまっていた。
気が付くと、大阪で1,2を争うターミナル駅に停車するところであった。
初売りに出かけていたのだろうか、紙袋を持った若者たちが多く乗ってきた。
母と僕の座席の前で、僕と同い年くらいの2人組の女子が吊革を持ちながら話をしている。
「別にそんなん気にしなくてええんちゃう?私やったら気にせず遊ぶわ」
どうやら、彼氏以外の男性との浮気について話しているようだった。
マスクをしているとはいえ、会話が否が応でも耳に入ってしまう。
聖なる空間から一転して、俗っぽい空間へ。
母は今どういう心境なんだろうか。
普段電車の中でそうしているようにイヤホンを耳にして自分だけの世界に入りたくなったが、目の前の会話から逃れるために音楽を聴き始めたと母に余計な心配をかけそうで、結局行動には移さなかった。
寝ているふりをしていると、幸い数分後に片方の女子が電車を降り、俗に満ちた会話が終わった。
最寄り駅に着いて、これまでの人生で何度歩いたか分からないいつもの道を歩く。
年明けは、家で夕ご飯を食べる人が多いのだろうか。ジョリーパスタは空いていた。
母はいつも決まって、トマトとモッツァレラチーズのパスタを頼む。
「せっかくやからワインも頼もうか」
白のデキャンタを頼み、2人で分けて飲む。
窓の外には、受験業界で日本最難関と言われる灘中学・高校のグラウンドが見える。
中学受験を経て僕が入学した学校もそこそこの進学校だったが、灘と比べると大きく見劣りする。
中学のときにサッカー部に所属していたので、学校同士が近所である灘中学と練習試合をすることも多かったが、いつも接戦で負けていた。
“勉強でも勝てへんのにサッカーでも勝てへんってどういうことやねん”と帰り道にサッカー部の同級生達と半ば自虐的に話していた日々が懐かしい。
「そういえば、今年はコロナで灘の学園祭行けへんかったわ。来年は行けるかな」
受験に誰よりも熱心だった母は、自分の息子が在籍していたわけでも無いのに、事あるごとに灘に遊びに行っていた。
学園祭の日に音楽部の演奏会を聴いたり、レゴ部の作品を見るくらいなら分かるが、なぜか合格発表の日にも毎年足を運んでいた。
受験生やその親が掲示板を見て一喜一憂している光景を見て、母は僕との距離が最も近かったあの頃のことを思い出そうとしているのだろうか。
「余っているワイン飲んでええよ」
デキャンタに残っていたワインを自分のグラスに注ぐ。
本当はあと数日は帰省する予定であったが、その翌日の夜行バスで東京に帰った。
早朝、バスが新宿駅に着き、マクドナルドで朝マックを頼んでコーヒーを飲み、寝ぼけ眼を覚ましながら、母にLINEでメッセージを送る。
【無事東京に着いたわ。なんか奇妙な旅やったけど、普段行かへんようなとこに連れてってくれてありがとう!また今度東京に来たら案内できるように、俺も東京に詳しくなっとくわ】
【夜行バス無事着いたようでよかった!一人やとあんまり遠出しないから久しぶりに旅行した気分になったわ。今度東京の部屋も片付けてあげるよ 笑】
その後、母は僕の元から去って行った。