“Anniversaire”.
男性名詞.ラテン語の“anniversarius”(毎年訪れるもの)から派生した言葉.
毎年迎える誕生日.私はこの10月に、また一つ歳を重ねた.
誕生会はいつだって楽しいものだと決まっている.楽しいものにする意志が、祝う側にも、祝われる側にもみなぎっているから.少なくとも、その姿勢を失いたくないと思いながら生きているので、友人の誕生会だろうが母親の誕生日だろうが、容赦なく祝う.お花や甘いものやご機嫌な音楽で空間を満たして.
フランスの誕生会は賑やかだ.小学生までは、多くのフランス人がマクドナルドやクイック(マクドナルドのベルギー版)を利用する.
これらファストフード店では「お誕生日プラン」なるものがあって、子供たちの遊びの時間から食事からプレゼントタイムから最後のお土産まで、全部お店が面倒を見てくれる.共働きが一般的なフランスにおいて、これほど便利なプランもない.
遊び場も充実していて、勇敢な子供たちは、カラフルなプラスチックのボールの海に思いっきりダイブする.1mの滑り台を、押し合いへし合い奪いっこしながら、すとんすとーんと流れ落ちていく.
適当に遊び疲れた頃、バースデー係のお姉さんが子供たちに号令をかける.「みんな!ハンバーガータイムよ!」
「僕はピクルス抜きで!」「私はコカ(コーラ)よりもオランジーナ!」「マスタードはかけないでね!」
お姉さんは子供たちのリクエストを手際良く聞くと、慣れた手つきでそれぞれにハンバーガーを配っていく.私は小学校時代ずっと、引っ込み思案で自己主張しそびれた幼なじみの残すピクルスを代わりに食べてあげる役だった.彼女と私は、7歳から15歳までずっと同じ学校、同じクラスで育った仲で、お互いの好みを知り尽くしている.今でも彼女のピクルス嫌いは健在だ.
ケーキタイムにはChampomyを開ける.細やかな泡がしゅぱしゅぱ輝く、子供用のシャンパンだ.やはりフランス.お祝い事には、シャンパンが欠かせないのだ.
そして、待ちに待ったプレゼントの時間.女の子向け定番の贈り物は、やはりBarbie!
バービー人形達は、子供の心のみならず、オトナの心も掴んで離さない.今年の春夏はパリの装飾美術館(Musée des Arts Décoratifs)でバービーの大回顧展があった.
1959年から現在までの、700体にものぼるバービー人形の展示で、壁一面にバービーのドレス、手袋、カチューシャ、バック、ハイヒール、ピアスに至るまで、細々とした「お衣装」が飾られた.
バービー人形の変遷は、時代のトレンドそのもの.Dries Van Noten展など、今やファッション界の先端を行くブランドの展示も手がける美術館ならではの、奥深い企画となった.
小さい頃はもっと気軽に歳を取れたように思う.単純に、子供という無力で無責任な時代からの脱却として、素直に歳を重ねていった、あの頃.
けれども、生きるということは、日々を積み重ねることと不可分であるので、その積み重ねが時としてカセになったりもするのだ.過去の哀しみは人を臆病にし、疑心暗鬼に陥らせ、虚構の常識に惑わされやすくし、他人との関係から逃れられなくして、身動きを取れなくさせてしまう.
だから、定期的に死ぬことが肝要だ.自分の混沌の重みに耐えきれなくなったとき、魂を軽くするために.何年もかけて溜まった心の奥底の倦んだ感情を一掃する.それが、過去の自分との決別すなわち死であり、新しい自分を迎える準備なのだ.
生は死ぬことで継続される.私は、定期的に、死ぬ.この死は浄化に近い意味を持っている.
そうした生→死→生...のループは、日常に溢れている.長年の恋人との別れであったり、職を変えることであったり、一念発起の断捨離であったり、居を移すことであったり.とにかく、それまでの自分が執着していたものの必要性を問い直し、不要であれば潔く捨てて、新しいものを迎えるための余白を作る作業が、新たな生を前提とした「死」なのだ.
居を移すということは、文字通り風通しの良いことだ.物理的にも精神的にも、眼に見えて清々しい.
誕生日の翌日、神宮に行ってきた.伊勢神宮の神嘗祭.
遷宮が終わったばかりで、何もかもが掃き清められた美しさだった.新しいものは静かで清潔.余分な蓄積も濁りもない、正しい重みを持って、そこに存在している.
お伊勢さんは大きく分けて、外宮と内宮があり、それぞれに主役の正宮とそれを囲む別宮たちがある.
別宮の中でも、特に相性の良さを感じたのが「風の宮」と「風日の宮」で、どちらも他の宮に比べて空気が軽く、冴え冴えとしていた.常に荘厳な豊かさがその場を満たしていて、それは身体中をめぐって、不浄の余地を残さない.
他の別宮「土の宮」などは、ずんもりした重さがあり、不動の空気に満ちている.私が好きだった「風」にまつわる宮の周りでは、静かに流れる川のように新しい空気が遠くから送り込まれてくるのだ.全身で感じる「気」の動き.
こうした「清浄さ」を保ち続けるために、神様も定期的なお引っ越しが必要なのだろう.建物も、人の心も、過去の経験に拘泥せず、常に新しいものに満たされる余地を残しておくことが、心地よさの条件だ.
一方、人生の中で、どんなに風が吹いても、どんな誘惑にあっても、手放してはいけないものも、ある.ことに、20代30代に得た直感というのは、存外大事なものなのではないだろうか.
「20〜30代の頃に抱いていた美術に対する考え方が、その後を左右する(ことが多い)」これは、Bunkamuraで開催中のピエール・アレシンスキー展に寄せた講演会中、国際国立博物館館長の山梨俊夫さんがおっしゃっていたこと.
アレシンスキーほど一貫した描き方を追求した画家も珍しい.自己形成とその後の展開に、一つも矛盾が見当たらないのだ.
ピエール・アレシンスキー(Pierre Alechinsky)は、1927年生まれの、ベルギー現代美術を代表する画家の一人だ.圧倒的な筆の勢いが、観る者の心を奪う.
初期のものから現在の作品まで、彼の絵は、特定のかたちに集約されない、縦横無尽な線で描かれてる.
彼ほどに線を重視して描き続ける西洋の画家を、私は他に知らない.身体全体を使って描いた線が、画面全体の骨格をつくっている.フランスの画家マティスの絵などは、線と色彩のハーモニーがとても大事だったりするのだけれども、アレシンスキーにとって色彩は、あくまでも線の伸びやかさを、あるいは激しさを、生かすための存在だ.
この線に対する情熱は、アレシンスキー10代の頃から始まっている.
高校を卒業後、市内の美術工芸学校で版画の技法を学び、己の線を本格的に追求し始める.20歳の時に「若きベルギー絵画」というグループ展で注目を浴び絵画の世界へ.48年にはCoBrAという国際的芸術家集団の結成メンバーとして知られるようになる.このCoBrAの活動の幅がアレシンスキーにもたらした影響は大きかった.実験制作や共同制作、国を越えての活動、因襲の打破、そうした若者的躍進を、カレル・アペル、コルネイユ、アスガー・ヨルンらと共に押し進める経験を得て、彼の線は更なる躍動感を増していく.
《頭》1951年、エッチング、アルシュ紙.ベルギー王立美術館
50年代、アレシンスキーはパリに移り住む.絵と文字の相違点と共通点を意識する中で、表象と文字の間をたゆたう「夜」のような作品を作っていく.こうした文字に対する関心が、自然と彼を日本の書の世界へと誘うこととなる.52年、アレシンスキーはパリで偶然にも日本の前衛書道誌「墨美」に出逢う.彼は一気に書の世界へと惹きこまれ、来日までの数年間、パリで書を学び、書家の森田子龍と文通し、書の自然な筆さばきを極めていく.
《夜》1952年、油彩、キャンバス.大原美術館所蔵.
そして55年の来日.江口草玄や篠田桃紅たちと交流を深める中で、自身の線の持つ自由闊達さ、自然さを、追求していく.来日以降、制作スタイルも日本の書道に習って、紙を床に置いて描くようになる.
さらに数年が経ち、61年、アメリカの国際展への出展が決まる.ここでアレシンスキーは、彼の線の自由を担保してくれる新たな画材、生涯の友、アクリル絵具と出逢う.
それまでの絵に使用されていたのは油彩.しかし、乾くのに時間のかかる油彩は、彼の線の伸びやかさを裏打ちする「即興性」とは相性が悪かった.これを解決したのが、速乾性のアクリル絵具だった.彼は友人の中国人画家ワラス・ティンからその使い方を学び、書道から学んだ流れるような筆さばきを実践していった.
《肝心な森》1981-84年、アクリル絵具/インク、キャンバスで裏打ちした紙.作家蔵.
このとき描いたものが、「セントラル・パーク」として発表される、彼の代表作の一つとなる.
《デルフトとその郊外》2008年、アクリル絵具、キャンバスで裏打ちした紙.作家蔵.
版画から絵画へ、油彩から墨、アクリル絵具へ、四角いキャンバスから丸い画面へ、多種多様な変貌を遂げるアレシンスキーの作品には、一貫して線に対する愛がある.
もうすぐ90歳になるアレシンスキー.若かりし頃に得た直感を忠実に守りながら、新しい風を積極的に取り込んできた人だ.
彼のように生きることが私の目標.年月を重ねて老いゆくことと、中身を入れ替えて進むこととが、並行する人になる.