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3F/長期滞在者&more

神の光。もしくは地を這う蟲の大群。

長期滞在者

ある日突然飛蚊症が暴れ出した。

かなり前から少量、小さいのがチラチラしてはいたのだが、ある日を境に暴力的に増えたのでびっくりした。
とくに右目の下方に常に塊があるので、普通に道を歩いていても右後ろから何か黒いものに追跡されているような気になる。部屋の中でついと視線を上げると、床からゴキブリが壁を駆け上がったかのような影が見える。
はっきりいって相当のストレスである。

飛蚊症が大量出現したその日の夜、夜道を歩いていると、街灯がある一定の角度で目に入ると視界の右端に縦に稲妻のように光の筋が走ることがわかった。歩くうちに何度も何度も稲妻が出現する。

昼はゴキブリ、夜は稲妻。暗澹たる気分である。

webで調べてみるとこの稲妻現象は光視症というらしい。
夜寝床に入ったら、カーテンの隙間から隣のマンションの灯りが入ってきて、それがまたうまい具合の角度に入っているのか、自分の寝ているベッドのマットに青白いレーザービームのような光が走った。何度も何度もである。
マンションの灯りは黄色なのに、光視症は青く出る。自分の目からレーザービーム。何なのだいったい。

翌日、眼科で眼底検査をしてもらった。
飛蚊症の正体は、目のレンズである水晶体の奥にあるゼリー状の部分、ここを硝子体というのだが、そこに生じる濁りや萎縮が原因の影である。
光視症も網膜(カメラでいうフィルム or センサー部にあたる)の受光エラーのようなもの。飛蚊症とセットで現れることが多いという。

飛蚊症が急激に増えると網膜剥離など怖い病気の可能性もあるらしいのだが、検査の結果は今のところ大丈夫とのこと。なんせ加齢によって硝子体がしぼんで濁ってきている、慣れるしかないね、ということだった。
慣れるんだろうか、本当にこれに。

・・・・・・

今は飛蚊症が出現しても光視症が出現しても、ある程度じぶんでネット検索が出来、病名の見当がつき、またすぐに医者で検査もしてもらえる。
だが、昔はなぜこんなことが起こるのかわからなかったろう。
音もなく足元をついてくる影。自分を追いかけてくる得体の知れぬ黒い存在。
妖怪とか霊だとか、昔の人が見たものは、案外高確率で飛蚊症なのかもしれない。もののけの正体見たぜ飛蚊症。

光視症の稲妻は、タイミングによれば神の啓示か何かに見えることもあるだろう。
底なしの失意の中、薄暗い教会の中でステンドグラスの反射から光視症が起きたら? 
砂漠の真ん中で渇死寸前、たまたま遭遇したラクダの隊商に救い出されるときに光視症が見えたら? 
もう神様からのサイン以外の、何だと思えばいいのかしらん。

そういう事例が伝播して、神の存在が確証に変わっていく。人の信仰というのは目の硝子体から発祥するのかもしれない。神は汝の目の奥に宿りたまふ。

昔はわからなかった「因果」というものが、神ならぬ科学の力で解きほぐされていく。
細菌やウィルスというものが発見される前には、医療現場にも消毒という観念すらなかったようだし、医療行為自体が命を縮める場合すらあっただろう。
科学はいろんなものを明らかにする。
とはいうものの、光視症に神を見るか、老いゆく我が目の硝子体を憂うか、どっちが幸せかと問われれば、まぁ、もしかしたら神様を感じた方が楽しいかもしれないのだけれど。


ゆるやかに体の各部は崩壊に向かう。目のみならず。こればかりは逃れられないことである。
古今東西ついに死ななかった人間というのは残念ながら存在しない。いつかこの目は見えなくなるし、体も消えて無くなる。
虫が這おうが神が啓示を下されようが、いろんなものをこの衰えた目で見て、無くなるまでは生きていくことになる。

まぁ、目は衰えても、僕には写真機という「別の目」もあるからね。妖怪も神も写らないけれど、いろんなものを視ることの出来る目ではある。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

理由が判明したとして解決はしないが均される部分、というのはあると思う。溜飲を下げるまではいかないが、ぐつぐつしそうな鍋にすこしの冷水を一定の時間ごとに差し続けるような抑えかたで。
こういう場合の納得というのは幾ばく、残酷なもののように感じる。情報という銃を突きつけて白旗を揚げさせるようにも見えるのである。「あなたはこういう病気です」と、名前を与えられるその時。病気そのものの残酷さだけではなく、納得させられる残酷さ、みたいなものはないだろうか。
科学の助けによりこれまで人類は歴史をつないできたわけだけど、今度はそれによって"宙ぶらりん"にされてしまったような事にぶち当たる。「こういうことなんだから解れよ」と、ある意味で脅される。昔は生贄に選ばれるのも占いの結果とかなんとかで、「こういうことなんだから解れよ」と殴られてきた人類。
「今の科学」に殴られるか、「神事や宗教」に殴られるか。
これは似て非なる、なのか、完全に同じなのか、と言えば、神事や宗教を心から信じている人にとっては、現代の多くが信じている
科学と立ち位置は同じで、完全に同じ場合だって少なくはないのだと思う。

人はこうして今も昔も、そして人生が続く限り殴られ続けるのかぁ、とか思いながら。
「それでも」ご飯が美味しいだの、あの曲がイイだの、ランニングのタイムがちょっと縮まっただの、好きな作家の新刊の発売日が決まっただの、そういうことで生きながらえていく。
人とは強く儚いものたちであるな、わたしもな、と、菓子でも焼こうかという気持ちになってきた。
生きながらえるって大変ですよねぇ、と、大きなことを考えているようで、手元で珈琲を淹れ、レシピを繰る。
そういう生活をしている。こういうのが生活なのかとも思う。
この身体で生きる(この身体でしか生きられない)、ということについて、自分のことも、他人のことも最近考えていた。
身体だけでなく、経験も含めて。

殴られた皮膚の下、青あざを作りながらも全部が無くなってしまうまで、抗うように吸い込めたらいい。

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