昔から色々あって僕は両親とは仲が良くないのであるが、その両親が揃って最近大きな病を得、面倒なことになっている。二人とも80歳を越えているので、逆に今までよく元気でいたものだとも思うが、何も揃って調子を崩さなくてもいいものを。
仲が悪いとはいえ一応身内なのであるから、まぁ最低限の手助けはせざるを得ない。病院に話を聞きに行ったり、ケアマネージャーと打ち合わせをしたり、なかなかに忙しくなってきた。
一緒に住んでいるわけではないので何か問題が発生するたびに自宅からなら40分、仕事帰りに職場からなら1時間20分かけて自転車で駆けつける。駆けつける、とか別に恩着せがましく書いているわけではなく、僕は自転車にさえ乗っていれば機嫌のいい人間であるから、鬱陶しい気分を自転車のペダルを踏むことで発散しているわけで、それはそれでいいのである。こんなとき自転車好きで本当に良かったと思う。
仲は良くなくても、身内が弱っているのを見るのは気分の良いものではない。仲が悪いからこそ頻繁には顔を見ず、時間が空くから余計に老いの加速を実感する。僕は父の29歳の時の子なので、僕の29年後が目の前にいるのだと思えば心穏やかではない。足腰が不自由になり、利かぬ体にイラついて愚痴っぽくなり、泣き言多く頑固にもなっている。いずれ僕にもやってくる道だ。
ボケもせず思考は明晰なので余計につらいこともあるだろう。忘れっぽいのは素敵なことであると中島みゆきも歌ってる。ボケるというのは本人的には悪いことでもないのかもしれない。
先に病気が発覚したのは父であるが、前後して母にも病気が見つかった。交互に入院をするためややこしさも倍増なのだが、母が入院中で父が一人で家にいるとき、想像以上に父が家のことを何もできない人間であるということを今さらながら知った。家のことは母に任せっきりで来たのであろう。ティッシュペーパーのストックの場所さえ知らないのである。もちろん料理もできない。介護サービスの手配してくれる日々の弁当を「味気ない」とかぼやくが、僕からしたら何を贅沢言っとるのか、という感じである。仕事に忙殺されまくってきた、古い時代の元銀行員とはいえ、もうちょっと生活能力はあると思っていたな。昔大学を辞めてしまい飲食業のバイトで食っていた僕に「そんなことでいいのか」と怒っていたが、料理もしない人に言われたくねーよ、と返すのは酷であろうか。酷だな。取り消す。まぁだからといっていろいろ不自由になってしまった人に今から米の研ぎ方から覚えてもらう気にもならないのだけれど。
そんなこんなで、いろいろ気も塞ぎ、鬱陶しい日々である。
先月末尾に書いた、カメラを落とした話。気の滅入る時には気の滅入ることが起こるものである。運気、などと人は言うが、別に非科学的な話ではなく、心身の不調が不調な出来事を呼び込むだけなので不思議はない。低空飛行を長く続ければ、そりゃあちこちぶつかるリスクも増える。それだけのことである。
気がつけば今年に入ってまだ3冊しか本を読んでいないことに気がついた。月に1冊ペースである。前に書いた通り年間100冊ペースで読んでいたので、それくらいの本を摂取しなければ生きていけないのだと勝手に思い込んできたが、本など読まなくても生きていられるのか、と変なことに感心している。日々発見である。単に人間のマルチタスクには限度があるというだけの話だろうが。
弱った父の姿を見て29年後の自分か、と考えてしまってから、何かにつけ86歳になった想像上の自分が頭に降りてくるようになった。自分の家の階段を降りながら、86歳の僕はこの最後の段で躓くのではないか、とか。まな板の上でタカタカと玉ねぎを刻みながら、86歳の僕がこんな包丁の使い方をしていたら指の2本や3本飛んでいくのではないか、とか。風呂につかりながら、さて86歳の僕はこの湯船を乗り越えて無事出られるのだろうか、とか。
昔は僕と父はあまり顔は似ていなかった。しかし最近になって、なぜか双方歩み寄るように、風貌が似てきた気がする。病院のベッドに寝て体の痛みを訴える父の顔を見て、姿が似てきただけに、余計に自分の29年後がリアルに実感されるのだ。
そもそも僕が86まで生きるかどうかわからず、それまでに自転車の事故とかで死んでしまうかもしれない。なんだかその可能性が高いのではないかと思っている。梅田の交通量の多い大通りの端を、路端のアスファルトの波打ちを避けながら走る。避けそこねて前輪をとられそうになり、態勢を立て直すが、僕が70歳なら今のでコケてただろうな、いつまでこの反射神経は保つのかな、自転車に乗らなくなったら僕はいろんな鬱々としたことをどうやって吹き飛ばすのかな、などと悪い方の可能性ばかりが気になるようになった。しかし、死に方の予行演習は想像の上では積んでおいて損はない。
想像力は自走する。70を越えて、もう自転車も無理なんじゃないか、と自覚する瞬間を想像する。まぁ自転車じゃなくてもいい。一文字も文章を書けない自分、カメラのシャッターを押す意欲さえなくなった自分。楽器? そんなの邪魔だから売ってしまっていいよ、とか言ってる自分。そんな自分を想像する。そういう諦念を抱き始める年齢に突入してきたということである。
せっかくの低空飛行のうちに、想像できるだけの自分のネガティブを観想しておこう。低空飛行でしか見えない景色もある。
あ、なんか暗い話ですみませんね。たまにはね。

