写真修行僧が終わってから、もうびっくりするくらい写真が撮れてない。いや、撮っていないこともないのだが、びっくりするくらいくだらない写真しか撮れていない。目と脳のセンサーが鈍りまくっている感じだ。
去年一年で感受する神経のようなものを摩耗させきってしまったのだろうか。由々しきことである。
あと、僕は元々活字中毒者で、硬軟あわせて少なくとも年100冊以上は何か読んでる人だったが、これまた年明けてから活字摂取量が激減していて数冊しか読んでない。なんだか廃人化している気がする。大丈夫なのか。
とはいえ多少は予測していたことでもある。
なぜか昨年末から急に降って湧いたギター熱(先月書きました)が、いろんなものを阻害している、という認識はあるのだ。
昔、まだ自転車に乗らず電車で通勤していたころ、往復1時間強の通勤時間を、本を読むか、もしくは音楽を聴くかに使うわけだが、これが不思議なくらいきちんと定期的に交替するのだった。音楽ばかり聴いてる3か月と、本ばっかり読んでる3か月。それが2巡して1年が終わる、みたいな周期。
そう、以前から音楽に集中している期間は、なぜか活字摂取欲が減退するのである。逆もまたそうで、猛烈に読んでいる期間は、ほとんど音楽を聴きたい欲がない。一日のうちでも音楽を聴いたり本を読んだりを、あまり混ぜてすることができない。よくわからないが(僕の)脳の性質としてそうなっているらしいのである。
音楽の摂取と言葉の摂取は、まったく違う仕組みで行われるのだろう。そして脳の受け入れ態勢として、それを混ぜられたら困るほど、僕の中の何かの許容量が少ないのだ。
と、ここまで考えての疑問。
ではやっぱり「写真」というのは「言葉」側に属するものなのだろうか。
今は脳が「言葉」を受け付けないモードなので、言葉陣営である写真も撮れなくなってしまっているのだろうか。
ふつう考えたら、音楽陣営と言葉陣営という区分があるとして、写真は音楽陣営に近いのではないかと思っていた。言葉(理屈)に整理される前の初期情動を記録できるのが写真であるから、言葉の陣営とは反する側に立つものだと思っていたのだが、結局「言葉に整理される前」というのは言葉ありきの考え方でもあるので、要するにそっち側の問題、ということなのかもしれない。どこまでも言葉から逃げられないというわけか。けったくそ悪いな。
そう考えると、逆に不思議なのは音楽の方なのだ。
すべての人間の「認識」というものが言葉を介するというのに、音楽は言葉の関与しない唯一の脳の認識通路なのかも、などと考える。
とはいえ、演歌はもろに言葉だろう、とか、メジャーセブンスのコードは言葉っぽくないか、とか、いろいろ異論はありそうである(勘だけで話しているのであまり厳しく突っ込まないでください)。
音楽というのは極言すれば音の配列の記憶である。ただの配列が、配列によって人の情感に訴えたりできることの意味が、まったく謎である。
わからない、というのは音楽が言葉に依っていないことの証拠なのだが(「わかる」は言葉の枠に整理可能という意味だから)、言葉に依らないのにある種のコード進行などが人に一定の情動の動きを強いることができる、というのが、不思議なのである。
いわゆる「あざといコード進行」というものがあって、どういうものかとは言わないけれど(youtubeで「エモいコード進行」とか検索してみてください)、あざといと感じられるくらいに、万人に同じ情感情動を与えられるということである。共通認識の浸透していないものに「あざとい」という評価軸は存在しないものね。
言葉でもないのに、音楽は「あざとい」という評価軸が成立するほどに人々に遍く共通の幻想を敷衍させている。ますます音楽の正体がわからない。
・・・・・・
というようなことをとりとめもなくうだうだ考えていて、考えていても写真は撮れないし、そもそも写真というのはどうしても撮らねばならぬものでもなし、だからと言ってそのまんまにしていたら本当に写真から離れてしまいそうで、それはさすがに何だか本来の僕ではない。
ここはちょっと強制的な気分転換が必要なのかもしれない。
というわけで、滋賀県立美術館で開催中の川内倫子の写真展を見にいくことにした。もちろん自転車で。
人の写真を見て気分を入れ替えようという話ではない。
川内倫子の写真は見なくても「良い」のはわかっている。
たまたま滋賀で川内倫子、和歌山で奈良原一高というビッグネームの展示が行われていて、はじめはどちらに行こうか悩んでいたのだが、勘案したのは距離とか坂の多さとか自転車往復のことばかりで、どちらが見たいか、というのは二の次だった。なぜなら両名とも写真は「良い」に決まっていて、そういう意味ではどっちでもいいからである(笑)。
良いに決まっているからどっちでもいい、なんて言うとすごく軽く考えている風に聞こえるかもしれないが、もちろん僕は二人とも凄い写真家だと思い、リスペクトしている。
しかしその「凄い」の評価はすでに盤石であり、ときに「盤石ならばあえてまた観に行く必要もないのではないか」というような逡巡を抱くこともある。わかりにくいだろうか。説明も難しいのだが。
写真を観たい、というのには、「凄く良いものを観たい!」というよりは、「良いかどうかわからないけれども、何らかの、もしかしたら失望をも含めた上での揺すぶりをかけられたい」ということなんじゃないだろうか、と思うことがある。川内倫子と奈良原一高では「良い」が盤石すぎて、言葉としては変だが、揺れの期待は小さいのである。だって良いことはもう知っているのだから。
もしかしたらダメかも、という穴の深さも含めての揺れ幅である。良いに決まっているものは、はじめから絶対値の半分を損しているのである。
なんか変なことを書いてしまったが、滋賀か和歌山かの選択に、自転車のことしか考えなかった理由はそういうことである。今の僕には内容よりも距離が大事なのだ。
くたくたになるまで自転車に乗る、ということを、例の篠山行き(→この記事)以来やってないのだ。それが鬱屈の原因かもしれない。
結局奈良原一高は川内倫子より遅くまで会期があるので、滋賀の方に行くことにした。
自転車に乗るという行為は、それこそ言葉脳とも音楽脳とも、そもそも脳の使い方の異なる世界である。筋肉の従者くらいの働きしか脳はなさない。
本が読めないなぁとか言ってるときに、一番必要なのは脳の使い方を考えることではなくて、まったく違う脳の使い方をすることかもしれない。
そういう意味で自転車は良い。なんか、いろんなものをリセットできる。単純すぎか? 単純すぎですね我ながら。
往復126km、心地よい疲労感。
川内倫子の展示は、予想どおり、盤石に良かったです。まぁ川内倫子ですから。
(↓ 滋賀行きの日、3月15日の写真)
大山崎NADAR 171号線鏡田交差点そば。