定期的に流れてくる町内放送を聞くと、「その場所にいる」という感覚を強く意識する。なかでもふたつ、好きなものがある。
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ここ数年間、8月のお盆のあたりには、いつも北海道の礼文島にいる。礼文島では遺跡の発掘調査が継続しており、各地や各国の学生や研究者たちが集まって、8月に調査を進めている。わたしも毎年この調査に参加しているのだ。
真夏とはいえ、北海道の北端の島は、本州と比べるとだいぶ涼しい。最高気温が20℃を超えると、「今日は暑いねえ」ということになり、海風の強い曇った日には、厚手の長袖を着ないと体が冷えきってしまう。遺跡のある北部には樹木の森がほとんどなく、一面の丘にはびっしりと笹などが生い茂っている。よく晴れた日には、真っ青な空と、視界をむこうのほうまで埋めつくす緑のコントラストが美しい。空には真夏の輝きをもった太陽が貼りついているのに、気候は涼しく風はさわやかで、本州から到着した最初の数日くらいは、なんだか変な気分になってしまう。
午前9時には作業が開始されて、12時にお昼休みになる。昼の12時になると、町内放送の音楽が拡声器から流れてくる。オルゴールで聞くような、のんびりとしたテンポの『エーデルワイス』。青と緑が輝く涼しい太陽の下で午前中の作業を終え、今日のお昼ごはんはなんだろうな……と空腹を抱えながら、「ポン・ポポン……」という音楽を聞いていると、なんとも愉快な気分になってくる。
「今年も礼文島に来たなあ……」と思うのは、このお昼のエーデルワイスを聞くときだ。夏の礼文島は日によって天気がよく変わり、きらきらと晴れた日ばかりでなく、冷たい風雨が吹きつづける荒涼とした灰色の日もある。しかし、町内放送のイメージは、なぜか、すっきりきれいに晴れた日と結びついている。
ついでに、朝や夕方にも町内放送の音楽が流れているような気もするけれど、本当のところどうだったのか、よく思いだせない。その場にいると放送が流れていることに気づくものの、時間がすこし過ぎてしまうと、もう記憶の端から抜け落ちていく。音がどこかに漂っていってすぐに消えてしまうような、町内放送のそんなおぼろげなところも、けっこう好きなのだ。
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今住んでいるところでは、朝昼夕に、町内放送の音楽が聞こえる。朝は、6時に音楽が流れたあと、録音された声が「今日も一日がんばりましょう」と激励をとばして終わる。昼12時には町歌と思しき昔風の歌。夕方18時には、『遠き山に日は落ちて』に乗せた「早めにお家に帰りましょう」というアナウンス。
同じ町内に住む友人は、しかし、この町内放送を聞いたことがないという。地区によって、スピーカーがあったりなかったりするのかもしれない。また、以前、台風が来て停電したときには、放送の順番がずれたことがあった。朝に、帰宅をうながす夕方の放送が流れ、昼には「おはようございます」、そして夕方に勇ましい町歌。おかしな順番は数日つづいたものの、いつのまにか直されていた。こうした適当さが、なんとも愛おしいなと思う。
毎朝6時にそこそこの音量で町内放送の音楽を流すのもどうかとは思うけれど、わたしはこれらの放送をけっこう気に入っている。朝型のわたしは、5時くらいにはもう起きていて、リビングで静かに仕事を進めていることが多い。この朝の仕事の時間は、その後の1日の時間とどこか切り離されていて、これから始まる1日にはまだ属していないような、特別な浮遊感がある。1時間ほど集中していたところで町内放送の音楽が聞こえると、そろそろ朝ごはんをつくろうか……と、気持ちのうえでやっと1日の活動がはじまる。
たまに、窓を開けて直に放送を聞き、そのまま外を眺めていることもある。起きたときには薄暗かった窓の外も、放送が聞こえる頃にはだいたい明るくなっていて、鳥の声や、人や車の行き来する雰囲気が遠くから漂ってくる。夜のあいだにゆっくり沈殿した空気が、だんだんかきまわされていく。
お昼の放送が聞こえると、そろそろ昼ごはんにしようか……と思う。昼の放送の歌はもう何遍も聞きすぎてしまって、フンフンとそらでも歌える。しかし、音質の悪い放送できちんと聞きとれない部分は、本当にそんな歌詞なのか自信がない。
夕方の放送はちょっと微妙な時間にあって、聞き逃すことも多いけれど、この放送がある頃にはちょうど日が暮れてきていて、見回した辺りの光が強さを失いつつあることに気づく。窓を開けて外の空気を入れていると、わたしの住む地域の放送が終わったあとも、どこか遠くのほうから、別な地域の別な歌が風に乗って漂ってくることもある。三線のペンペンという響きに、男の人の渋い声が乗っているようである。
しばらく他所で仕事をしていて、久しぶりにこの家に帰ってきて、朝昼夕の町内放送を聞くと、ああ、やっと帰ってきた……とほっとする。
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数km南に離れた地域でも、定時の町内放送を聞いたことがある。自転車に乗ってその地域を走っていたとき、おそらく12時ちょうどになったところで、道の脇のスピーカーから「ギィィー」と金属がザラザラきしむようなひどい音が流れだした。これがこの地域のお昼の放送なのか、とすぐに気づいた。音質があまりに悪くて、なんの曲なのかまったく判別できなかったけれど。
それからだいぶ経った5月の連休のある日、Rとふたり、朝からずっと家でお仕事をしていた。夕方前に南のほうに買い物にでかけ、そのまますこし遠出をして、このあたりでもっともおいしいぜんざいを久々に食べに行った。1日仕事をつづけていた疲労感が、ふわふわの氷とぷりぷりした金時豆で癒やされていく。
ぜんざいを食べた後、近くの農道を散歩しているときに、この地域の夕方の町内放送が聞こえてきた。時刻は17時、太陽はまだ陸地から30°くらいの場所にあり、帽子のつばで光をさえぎらずに前を向くとだいぶまぶしい。そして奇しくもここは、以前自転車で通りかかったところと同じ場所。以前と同じくザラザラとかすれた音だったけれど、それはたしかに『夕焼け小焼け』の曲だった。
金属がきしむような町内放送を、この地域の人たちは日々聞かされているわけだ、と考えると、なんだかおかしくなってしまった。金属のきしむような音であっても、毎日聞いているうちに愛着がわいてくるだろうか。それとも、すぐに消えていってしまう風景の一部として、まったく何も感じなくなるだろうか。どちらであっても、町内放送らしくていいなと思う。