長期滞在者
旧知のM君が写真集を出版した。以前から『IMA』などに採り上げられているものも見ていたし、何度か展示を見たりもしているけれど、実のところ、いつも彼の写真はよくわからない。そもそも「写真」かどうかもわからない。フォトグラム(本来は印画紙の上に物体を置いて直接露光したり、カメラを使わずに画像を生成する手法)の亜種、という説明だが、その説明では何が何だかさっぱりである。最近のものを見ると、まるで電子顕微…
長期滞在者
ルーニィは、5月18日以降いつも通りの営業を再開していますが、来場者数はいつもの2割くらいで、とても静かな毎日です。というか、今年の入ってからずっとこんな感じだったような気がしています。ぼくにしたって、いつも観て歩く展覧会の半分も回れていないわけですから、どこも空いているようです。 15時ごろに近所のギャラリーにちょっと立ち寄ると、今日最初のお客様です、なんて言われることもしばしば。事業継続のため…
長期滞在者
祖母が死んだ。感染症のこともあり、私は葬式に参列しないことになった。死に顔を拝めず、見送りもできない。死の実感がないまま過ごしている。 原因不明の咳が続く。なんとか生活しているというより、生活があるおかげでかろうじて寝起きしている。日常のありがたみをこれまでは感じてきたけれど、こんな日常を送っていていいのだろうかと今は疑問に思う。汽車はずんずんと進んでいるのに、途中線路の上でバラバラの部品になるの…
長期滞在者
人と話すのがとても苦手だ。テンポの良い言葉のキャッチボールというのが難しい。気が利いたこともなかなか言えない。「おはようございます」と「こんにちは」も上手く言えなくて、先日、モネの夕方の散歩でいつも会うポメラニアンを連れたおじさんに「おはようございます!」と言ってしまった。私とモネの後ろに長い影ができていた。 気の利いた褒め言葉がぱっと出てくる人は羨ましい。私自身もそうだけど、やっぱり褒められると…
長期滞在者
本を読むとき、それが旅をテーマとする小説であれば、家の中で読むよりも移動しながら読みたくなる。そして、出来ることならば、小説の舞台に可能な限り近い場所で読みたい。 茨城県を舞台とする小説を読むために、普段ほぼ使うことのない常磐線に乗り込んで読み進めていった。時々車窓を眺めながら、心温まる小説の世界にどっぷり浸かった幸せな状態でページを捲っていると、残り数ページのところで突然大きな喪失が訪れる。 こ…
長期滞在者
夜、ウォーキングしていると、目の前の暗がりを貧相に痩せ汚れた猫がゆっくり横切っていった。かなり老齢なのだろう、足どりに力がなかった。途中近づいていく僕にも気づいたようだが、警戒するでもなく、気だるげに一瞥をくれただけでそのまま暗がりに消えていく。 僕はそのときiPodの音楽をランダム選曲にしてイヤホンで聴きながら歩いていたのだが、その老猫が横切ったときたまたま流れていたのはセロニアス・モンクの「A…
長期滞在者
どうしようもない困難が続く日々だけど、ここには確かに幸せがある。 2021年4月25日。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、東京、大阪、兵庫、京都を対象に、3回目となる緊急事態宣言が出された。 2021年4月29日。この日は私の教え子同士の結婚式の日だった。アナウンスやフリートーク、ラジオの個人レッスンを担当してきたゲームキャスターの長谷川優貴くんと声優としての活動もしている長谷川紫音さんの結婚…
長期滞在者
振り返ってみると目の疲れにやられているこの数週間。 薬局に駆け込んで「目が痛い」と泣きついたら、タクシーの運転手が指名買いするという飲み薬を教えてもらった。最近は家でつい仕事をしすぎてしまい、体に悪影響が出ているひとが増えているそう。 何事にも良い面と悪い面がある。なるべく外に出ない生活を続けて一年以上経つけれど、誰かと直接話したときの温かさをしみじみと感じたり、マスクをしないでくしゃみをしている…
長期滞在者
先日香川県の地方都市に出張した。 高松から電車で1時間半ほどするそのエリアにはビジネスホテルが無く、民宿に泊まることにした。宿は寺院の裏手にあり、主にお遍路さんの際に利用される宿であった。その宿では、まるで1年分の疲れを洗い流せたかのような落ち着いた時間を過ごすことができた。 無事出張を終えた後、帰りに高松で一泊し、男木島で昼寝をし、夕方のフェリー便で実家の神戸まで帰った。 その後、神戸の実家で1…
長期滞在者
四十路を迎えたら、和装で日々を過ごしたい。 ――いつごろからから、私はぼんやりと夢に見ていた。 なぜ四十路なのか。20代の私には和装がとても敷居が高いものに思えた。30代の一時期、アルバイト先で習った記憶を頼りに着付け、和服を普段着にしていたのだが、身心の健康を喪失したことによりフェイドアウト。そして11年前、まだ乳児であった息子と共に、神奈川県から帰郷した当時の私が35歳、「まあ40を迎えるころ…
長期滞在者
JR大正駅から南へ南へひたすら南下する。4kmほど歩いて南恩加島という地名を通過すると、木津川運河の先に船町の製鋼所の威容が見えてくる。この風景が好きで、昔からよく大正区を歩いた。バスも走っているけれど、そういえば乗ったこともないな。製鋼所を見てまた大正駅に引き返すか、大運橋の交差点を東に曲がって地上33mの大ループ橋・千本松大橋を渡り、木津川を越えて南津守の方へ歩くか。最近は自転車で行くから大し…
長期滞在者
その色は、私が初めて見た色だった。 新月の夜、漆黒の夜空に点在する無数の星を見上げ続けていると、次第に星が遠ざかり、東の空にこれまで見たことがない、マゼンタのグラデーションが輝き始めた。 飛び出した。身体よりも先に、心が波打ち際を走っていた。目の前に広がる日本海はどこまでも澄んでいた。私が立っている足元は、翡翠が打ち寄せる浜辺だった。 あの日、私が見た、始まりの日の出。それは、全ての混沌から解放し…