鬼海弘雄さんの代表作「PERSONA」について、もう何千回も聞かれるであろう、どんな人に声をかけているのか?という問いに対して、いつも鬼海さんは自分でもよくわからないといいます。45年間同じ場所に留まり、他人には絶対に真似のできないような圧倒的な時間の積もらせ方をしてもなお、ご自身がレンズを向けている物事を一言で言い表すことが困難だというのは、とても興味深いものがあります。そして、わからないものを強引に探してきた言葉を使わずに、わからない、とする点に大きな意味があるように思います。
作者が自分のフィルターにかかってくる対象を適切に言い表す言葉が「わからない」といっているのを踏まえて、浅草のポートレートの作品に定着された多くの人々の姿を眺めると、画面に向き合う僕たちは、益々そのわからない謎を自分なりに想像の翼を広げながら、考えたくなってしまいます。作者から明確な答えをいただけなかったから、余計に想像力が働きます。
そういうことを考えながら作品を向き合うことができるのが、作品をただ眺めているだけと、何かを読み解いていくように観ることの違いです。この画面と自分の心を共鳴させるように作品と対話を重ねるある種の訓練は、ぼくたち鑑賞者は当然持っていた方が良いのは当然として、作家さんたちもそういう読み方の基本をきちんと知る必要があります。
いっぽう、これはうちで初個展を目指す人も含めて、相変わらずどこへ行っても見かけるのが、どこかで読んだことのあるような一見通りの良い言葉をつなぎ合わせて、テキストをでっち上げる人。政治家の答弁のような言語明瞭意味不明なもの。前者は単に表現している自分に憧れているだけで、心の底から湧き上がる何かを持っていない虚しさがあり、こういう人に限って人前に出て行きたい意識は強いが表現者の資格はありません。後者は社会の目に触れることで起こるであろう、様々な摩擦を恐れるがあまり、平易で当たり障りのないことばをつなぎ合わせ、自分の存在を安全地帯へ逃げ込んでしまうようでもあり、それでは表現者の覚悟がなさすぎます。
作品と文章は密接に関係しています。格好つけただけの人はそれがわからないので、すぐにこの表現が嘘っぱちだということがバレてしまいます。
それでは、こういった中身の薄いその場を取り繕うような言葉しか持ち合わせていない人は、作品を社会の目に触れさせることができないのでしょうか?そんなことはありません。素直に自分はわからないということを認め、わからないものをわからないままに表へ出せば良いだけのことなのです。そうせずに、さも適切な言葉が見つかったかのように、安易に見てくれの良いフレーズに飛びついてしまう表現。心底悲しい気持ちになります。