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3F/長期滞在者&more

If I could write poetry

長期滞在者

詩と写真というのは、思った以上に親和性があるのではなかろうか。
と、思いっきり誤解を招きそうなことを書いておきます。
まんまと誤解しませんように。

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伊藤比呂美の本を、ここのところたて続けに読んでいます。
最初は池澤夏樹個人編集の日本文学全集に載っていた伊藤比呂美訳『般若心経』でした。
凄い訳でした。
詩人とは凄いものだと感嘆しました。
今まで「詩人」というものを、よくわかっていなかった気がします。
僕だって読む人ですから、凄いな、と思える詩に出会ったことがなかったわけではない。
いく人か、いく篇かは、凄いなと思えるものも思い浮かぶ。
でもどこか、「文芸」という言葉のせいか、詩とは言葉を使った「芸」だと思っていたふしがある。
伊藤比呂美だって「胎児はうんこ」とか言ってた時代から一応は知ってましたが、よくわかってなかった。
写真家と言えば、全身全霊写真家、みたいな人もいて、ああいう人だったりこういう写真家だったり、いろいろ思い浮かぶのに、詩人と言われれば、単に詩を書く人としか思ってなかったかもしれない。
浅墓でありました。
伊藤比呂美は詩人でした。僕の思い描いていた詩人の範疇を超えて全霊で詩人なのでした。

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僕は以前、ここに「すべての風景に、意味が立ち上がってくるよりも速いスピードで立ち向かうのだ」なんていうなかなかに詩的な(苦笑)タイトルの文章を書いていて、伊藤比呂美の全霊ぶりを知ったあとではクソみたいだな俺、と思っていますが(「立ち向かう」とか簡単に書くなよ、とか)。
まぁ、タイトルの是非はともかく、そこで書いたことは、写真というのは、何かトリガーになるものに出会って、それが言語化されて理解の棚に並べられる前に捕まえられるか否かにかかっている、みたいな話です。
詩も、たぶんそういうものだよなぁ、と思いました。

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詩は言葉だけれども、言葉の檻に閉じ込められる以前を扱っている。言語化の前の混沌を、固定する方向にではなく、混沌のまま凝固を拒む形で発している。
言葉の後ろにうずまくものに向かう。
結果としての言葉を壊す方向で言葉を発する。
言葉を信じない人が言葉を使って書く。
ものすごい綱渡りな世界なのかもしれない。

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写真は外からのシグナルに感応して自分の中にある叙情的な核のようなものを崩しては組み換えていく作業だと思っています。
たぶん詩もそうだし、すべからくアートというもの、つきつめればそういうことなのかもしれない。
逆に言えば「自分の中にある叙情的な核」が積極的に変わらなければ、感応すべきシグナルにもどんどん気づけなくなるということです。
写真は反射神経だけで続けられる世界ではありません。

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くだくだ何を書いているのかと言えば、年末の展示を終えて、最近気が緩んだのか、全然撮れない日が続いている、その理由を自分なりに分析しているのです。
要するに、内側の叙情成分が枯渇しているのです。感応するにもこっちに蓄えがないんでしょう。
しばらく貯蓄inputにいそしみます。
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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

ああ、そうなんですよね、と、ショックみたいなものを受ける。
言わんとすることがとてもわかる気がして。

あと、理解の前を扱うという面のほかに、一度うっかり完成されてしまった枠組みを壊すということもなされるというのは、共通してあるのではないかと思ったりしました。

それは、つくるための原材料となる思い(少し語弊もあるかもしれませんが)のようなものも然りであって、爆発しそうなものを宥めすかしたり飼い殺したり、そういう少々体に悪いことをして、発酵を待ち、いくつかのそういった物事の複合物をさらに濾過してみたりだとか、全く関係ない甘い汁みたいなものにまとめて漬け込んでみたりだとか、単に距離を取って細部は見ないようにしてみるとかいうことも含め、そういう出発点の方でも起こって(起こして)いる運動なようにも思います。

これは、「まんまと誤解」した方の解釈からなるものかもしれませんが、写真に詩(や、詩のようなタイトル)をつけて発表する、というスタイルは賛否あるものの、割とポピュラーです。

しかしながら、理解の前を扱う、もしくは似たような敢えて壊すことでつくられる曖昧な枠組みと、似たような借り物からの生成で以って成り立っているという面は類似しており、親和性が高いと思う人が少なくない、よってポピュラーである現状なのかと思います。



詩にしても写真にしても、作り手がどこまでのことをつくろうとしても、つくり手がさわり、受け手に渡るものは、ほとんど全部が既存の言語からなるものであり、ほとんどが元々そこにある世界から出来ていると思います。

というのは、詩にはつくるために使う言葉(単語)は人々に認識されている言語の一部を組み合わせて使わねばならないという限局された面があり、写真には世界に実存する(させた)ものを機械を通してクロップし、平面化したり数値化することでしか概ねつくれないという似た限局された面があると言えるのではないだろうか、ということで。

どんなに自由につくるということを考えても、つくるということに伝えるという役割を付加するのであればそこから一挙に完全なる自由は失われ、自分が生まれるよりも前に既に在ったものを借りてでしか、借り物でしかない部分を認めなくては、その先に進めないようにも感じます。

勿論それは、実際の原材料となりうる世界そのものだけでなく、文化的背景や歴史、目には見えない「お作法」のようなもの、わざわざ語られない文法のようなものも含まれます。

そういう決まりや、枠組みのようなものをどこまで壊して、どこからはのこしてゆくのか。
その駆け引きを自分の中で、また、世 の中で、やっていくということはどの表現ないしアートにも共通しているのではないかと、確かにそうだなあと思うのでした。

本文で書かれていることはイコールそういうことではないんですが、その数歩隣を歩けばぶつかる思考はこの辺で、本文はもう、「ああ、もう、すっごいわかる気がする」と思って、何か書こうにも、まるまる引用になってしまってはレビューではなくなってしまうので、毎度のことながらぐるぐる歩いた思考の足跡のようなレビューですが、それをもって今回のレビューとさせていただきます。

「写真は反射神経だけで続けられる世界ではありません。」

これはほんとうに、重くのしかかるひと言です。

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