詩と写真というのは、思った以上に親和性があるのではなかろうか。
と、思いっきり誤解を招きそうなことを書いておきます。
まんまと誤解しませんように。
伊藤比呂美の本を、ここのところたて続けに読んでいます。
最初は池澤夏樹個人編集の日本文学全集に載っていた伊藤比呂美訳『般若心経』でした。
凄い訳でした。
詩人とは凄いものだと感嘆しました。
今まで「詩人」というものを、よくわかっていなかった気がします。
僕だって読む人ですから、凄いな、と思える詩に出会ったことがなかったわけではない。
いく人か、いく篇かは、凄いなと思えるものも思い浮かぶ。
でもどこか、「文芸」という言葉のせいか、詩とは言葉を使った「芸」だと思っていたふしがある。
伊藤比呂美だって「胎児はうんこ」とか言ってた時代から一応は知ってましたが、よくわかってなかった。
写真家と言えば、全身全霊写真家、みたいな人もいて、ああいう人だったりこういう写真家だったり、いろいろ思い浮かぶのに、詩人と言われれば、単に詩を書く人としか思ってなかったかもしれない。
浅墓でありました。
伊藤比呂美は詩人でした。僕の思い描いていた詩人の範疇を超えて全霊で詩人なのでした。
僕は以前、ここに「すべての風景に、意味が立ち上がってくるよりも速いスピードで立ち向かうのだ」なんていうなかなかに詩的な(苦笑)タイトルの文章を書いていて、伊藤比呂美の全霊ぶりを知ったあとではクソみたいだな俺、と思っていますが(「立ち向かう」とか簡単に書くなよ、とか)。
まぁ、タイトルの是非はともかく、そこで書いたことは、写真というのは、何かトリガーになるものに出会って、それが言語化されて理解の棚に並べられる前に捕まえられるか否かにかかっている、みたいな話です。
詩も、たぶんそういうものだよなぁ、と思いました。
詩は言葉だけれども、言葉の檻に閉じ込められる以前を扱っている。言語化の前の混沌を、固定する方向にではなく、混沌のまま凝固を拒む形で発している。
言葉の後ろにうずまくものに向かう。
結果としての言葉を壊す方向で言葉を発する。
言葉を信じない人が言葉を使って書く。
ものすごい綱渡りな世界なのかもしれない。
写真は外からのシグナルに感応して自分の中にある叙情的な核のようなものを崩しては組み換えていく作業だと思っています。
たぶん詩もそうだし、すべからくアートというもの、つきつめればそういうことなのかもしれない。
逆に言えば「自分の中にある叙情的な核」が積極的に変わらなければ、感応すべきシグナルにもどんどん気づけなくなるということです。
写真は反射神経だけで続けられる世界ではありません。
くだくだ何を書いているのかと言えば、年末の展示を終えて、最近気が緩んだのか、全然撮れない日が続いている、その理由を自分なりに分析しているのです。
要するに、内側の叙情成分が枯渇しているのです。感応するにもこっちに蓄えがないんでしょう。
しばらく貯蓄inputにいそしみます。