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3F/長期滞在者&more

時間の問題

長期滞在者

京都の某老舗帆布カバン屋のショルダーバッグやトートバッグを、かれこれ二十数年使っている。もちろん、いくら頑丈といわれる帆布バッグでも、重くて堅いカメラを運ぶのだから消耗は激しく、すでにいくつも使いつぶしている。一番良く使うショルダーバッグはすでに四代目。バケツ型トートも初代がもう破壊寸前のズタボロで二代目に移行している。
一時期このカバン屋の製品が女性誌にとり上げられてブームが起き、注文してから半年待たされるという事態になったことがあった。「おしゃれな」とか不思議な形容詞がついていたが、僕はここのカバンを「おしゃれ」などと思ったことがただの一度もない。むしろ「ちょいダサ」くらいの線を守っているところが、このカバン屋の良いところであると思っている。
新品のカバンは、まぁ、なんというか、かっこいいとかどうだとか、そういう座標軸からは外れたデザインである、としかいえない。誇らしげに目立つ漢字の店名ロゴも、良いような悪いような、むにゃむにゃ。
しかし、使い倒してクタクタになって、擦れて色も褪せ糸もホツれた、ほどよく手垢も染みた、肩から提げているのがもう体の一部に同化しているような、そんなのを提げている人を町でみかけると、これがまた、どんなにくたびれた人(失礼)であってもかっこよく思えるのである。
そう、最初から新品としてのデザインを放棄して、十年使った姿を念頭に置いて作られているのだと思われる。
もちろん使う本人も同時に年をとるわけだから、少なくとも二十代の若造にはまだしっくりこない。そのカバンとともに過ごした相応の年月が必要だ。
(ちなみに帆布のカメラバッグとして有名なアメリカの某D社のものは、一度使ってみたが、ただ経年「劣化」していくだけで、素直に見すぼらしくなる。十年後を考えているかいないかの差だろうと思う。)

実際僕がここのカバンが好きになったきっかけは、初めて店舗に行ったとき、レジ裏に置かれていた、工具が無造作に入れられてヨレヨレになっていたトートバッグを見たことだった。実際に長年のあいだ道具入れとして使われているのだろう。その傷み具合が店に飾られる新品のカバンの百倍にも輝きを放って見え、ぜひとも買ってここまで使い古したい! と思ったのだった。
二十年使って、僕の買ったバケツ型トートの初代は、めでたくもそのとき店で見た道具入れと同等もしくはそれ以上のズタボロ感を得、晴れて「トートバッグ」から「道具入れ」へと脱皮した。今は二代目が道具入れを目指して研鑽に励んでいる。
カメラバッグとして使うフラップのついたショルダーは先にも書いたように四代目だが、最近主力で使っているシグマの一眼レフのレンズが大きく、カバンが容量的に足り苦しいので、十年ぶりに新調することにした。十年前にはなかった容量の大きくなった製品が出ているのをカタログで発見したのである。かつてのように五ヶ月待ち、ということはなくなっているが、それでも注文から二ヶ月と書かれている。届く二ヶ月後と、くたびれる十年後の両方を楽しみに待っているところだ。

気がつけば若いと思っていても、僕もいつのまにか四十八歳、下天のうちをくらぶれば、信長の時代ならあと二年で死んでもおかしくない年齢だ。このカバンは十年はもつだろうから、使いつぶす頃には老境という異次元に突入していることになる。願わくばそのあと二つ三つと使いつぶしたいものである。自分の余命をカバンいくつ、でカウントするような年齢になってきたことは、寂しくもあり面白くもある。

こんな三流写真家の僕だが、写真家としてある程度の名を残したいとか、僕が死んでも写真が残ったら嬉しいとか、そんな妄執にかられた時期もあり(笑)、銀塩プリントのアーカイバル処理とか、顔料プリントの耐久性研究とか、いろいろ考えたりするのだが、職場(営業写真館)にたまに修復・複写依頼で持ち込まれる古写真の、時の化石のようなたたずまいを見るにつけ、写真というものは本当は劣化して風化して消えていってもいいものなのだ、と思うようになった。
地紙が黄変しひび割れ銀濃度の濃い部分が浮き出て青光りする写真は、あと数十年ほったらかせば物体として崩壊していくだろう。顔料プリントにしてもインクの耐候実験で二百年とか言うけれど、インクが仮に耐えたとしても、まず支持体の紙がそこまでもたない。もちろんもっと身も蓋もない話をするなら、いずれは地球も太陽系も消滅するのである。寿命のないものなど何もないのだ。

愛用品の経年劣化は老いて死ぬ自分たちの暗喩でもあり、そもそも老いて死ぬ我々じたいが、宇宙すら永久ではないということの喩えでもある。
最近読んだ本で、生命とはつまるところ「渦」であり、渦は世界のエントロピー増大を加速させる、つまり命とは世界の老化を早めるために存在するのだ、ということが書いてあった。意味がわかったようなよくわからないような。少なくとも我々の生きた結果は多少は世界を走らせるのだ。
話が大げさになってきたが、要するに、秩序は解けゆき、時は止まらないのである。カバンは道具入れに変化し、最後はボロキレと化し分解し消滅する。人も同じ。世界も同じだ。

まぁ、大げさな話はともかく。
早く来ないかな。新しいカバン(るん)。

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予告 [新企画のお知らせ]

気がつけば二年以上ここに長期滞在して書かせてもらってます。出て行けともいわれないので居続けてますが、よいのでしょうか(笑)。
入居三年目になりますので、新年から少し趣向を変えたものもやってみようと思います。
当番ノート時代からのアパートメント同居人、古林希望さんとコラボ企画です。
管理人の鈴木悠平さんがタイトルを考え、そのお題で希望さんが絵を、僕が二百字小説を書きます。僕と希望さんのすり合せはなしなので、お互いどういうものを書いているかはわかりません。
一月から不定期に、何回かやってみようという話になってます。
お楽しみに!

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

書いていることとはまた別に、書き手が見える気がする時。不思議とうれしいような、何とも言えないにやにやした気持ちになる。

* 

ひとの文章を読むと、
「なんかこの方のこと、ちょっとわかったかも」

と思えそうな瞬間が顔を覗かせることがあると思うのですが、「書ける」方はわりとそれをコントロールしてしまって、見せてくれなかったりする気がします。
若しくは、油断して見せてるフリ、とか。(ああ、またうまく転がされちゃってるのかも。とか時々思います。)

なんだかここ数回は、レビュワーの個人的感覚ではあるのですが、隣でお話をしているカマウチさんの印象にとても近いコラムで、
ここ(アパートメント)でしかカマウチさんを知らない方は、もしやにやにやした方もいるのでは?と、勝手に想像してわたしまでにやにやしていたりします。



そしてそして!
文末のお知らせにもどうぞご注目下さい。

あたらしい企画、わたしもとっても楽しみなのです!

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