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3F/長期滞在者&more

時友

長期滞在者

職場(西宮)から自転車で寄り道して帰る定番ルートの一つに、武庫川沿いを北に伊丹方面まで遡上して尼宝線から尼崎へ帰ってくるコースがあって、その途中に時友という地名がある。
一部建て替えがはじまった古い市営団地があり、人口減で寂れてきた商店街があり、町全体が贔屓目にも華やいでいるとはいいがたい場所だが、いつもそこを通過するたびにバス停や商店街の看板の「時友」の文字、この地名がなぜか気になってしかたがないのだ。


どうしてだろう。
寂れた、時の古びた感じと「時」の字が感傷的にリンクするからかとも思ったが、どうもそういう発想ではなくて、時という抽象的な意味合いの文字が地名に使われていることへの違和感なのかな、と考えた。
言うならば友という字もある意味抽象である。時と友、抽象の二重奏。筒井康隆の小説みたいな感じだな。

いや、抽象語の地名が他にないわけではないだろう。調べればいくらでもありそうな気もする。
だが時という言葉の未解決感、途方もない感じ、寄る辺なさのようなものは、僕だけだろうか、とても土地の名前というような根付きの感じとは一番遠く感じてしまうのだ。
気になるので、まず他に時の字が使われている地名を調べてみた。
検索するとまったくないわけではないが、やはり少なくは感じる。市区町村名としては長崎の時津町のみで、あとは小さい町域名か字名ばかり。少ない中にも浄土教の一派である時宗(じしゅう)関連の地名が多そうだ。
地名には珍しく感じる文字だが、人名としてはわりとある。藤原時平、梶原景時、北条時宗、坂田金時。昨日たまたま宮本常一の本を読んでいたら出てきた能登の旧家・時国家なども。
尼崎の市立地域研究史料館のwebページで「時友」を調べてみたら、古く、少なくとも室町時代からある地名であるという。時友、隣の友行、いずれも領主名からとられた地名であろうと推測されている。
あ、なーんだ人名なのか。

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西加奈子原作 ・行定勲監督の映画『円卓』(2014)で、主人公家族が住んでいた団地が、断面がY字になったスターハウスと呼ばれる形状の建物。
あの映画は主演の芦田愛菜の好演でとても好きな映画なのだが、あの映画のロケに使われたスターハウスが時友住宅の中にあったもので、映画の撮影後に解体された、という話を地域発行の小冊子で読んだ。
おおー。あの映画ここで撮られたのか。解体される前にスターハウス見てみたかったなぁ。
当時10歳の芦田の快演かつ怪演で、楽しいながらも全編不穏な雰囲気も流れるあの映画。それが時友という不思議な地名にも妙に合っている。
外のシーンはもっと緑多く明るい感じの場所だったから建物のシーンだけが使われたのかな。
調べてみようと思い検索したら、ん?? スターハウスのロケ地は宝塚の仁川団地と出てきた。

ええええ。時友ロケ地説はガセ???

今その小冊子が見つからないので確かめようがないのだが、おそらく
「映画『円卓』で使われたスターハウスと呼ばれる団地が時友にありましたが、残念ながら解体されました」
というような文章で、真意は
「映画『円卓』で(も)使われたスターハウスと呼ばれる団地(と同じもの)が時友に(も)ありましたが、残念ながら解体されました」
だったのだろう。曖昧語法の最たるものである。ぷんすか。信じたやんか。

で、行ってみた。そのロケ地の仁川団地の方に。

↑ 仁川団地も取り壊しが決まっているが、まだ建物は残っている。案内板で見ると8棟のスターハウスが存在したようだ。工事塀で囲われてしまっているのでこれ以上近づけず。
残念、三角構造の内部階段を見たかった。
なぜか今年は鶯がうるさいくらい鳴く、と近くに住む人が話していた。
たしかにホケキョホケキョとひっきりなしに鳴いている。そしてたしかにうるさい。廃墟化したガランドウの団地が共鳴胴となっているのだろうか。
やかましいほどの鶯、というのは初めての経験だった。

↑ 時友住宅の方のスターハウスも地図で跡地を探してみた。完全に取り壊されて更地になり、次の建物のための工事が始まっている。
スターハウス、昔一時期流行した団地のデザインらしいけれど、その流行から時代が一巡して、各地どこも老朽化して建て替えの時期に入っている。なかなか素敵な構造なのに、消え去るのはもったいなく感じるなぁ。

from google map street view
(時友住宅のスターハウス。すでに解体されていますが、2020年7月現在ストリートビューでは見ることが出来ます)

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時友という地名に、なにか不思議を感じた。その不思議の正体は何だろう、という話に戻る。
歴史ある地名であることはわかったが、ならばその昔の人間は「時」をどういうものと考えていたのだろうか。

時間とは何か、というようなことを考えてしまう。
現代物理学の時間概念を考える、みたいな難しい話はわからない。高速で移動すると時間の進みが遅いとか、さらには時間には方向もなく直線的でもなく量子の相互作用においてのみ姿を現す、とかいわれても(なんだか面白そうではあるが)全然わからない。

しかしそんなややこしい話をしなくても、たとえば室町時代に史料にあらわれたころの時友と、今の時友では流れる時間という観念が違うだろうとは想像できる。
想像でしかないのだけれど、祖先崇拝があったり来世への信仰があったり、どの時代にあってもどの国においても、現代よりは「現世以外」の時間軸というものが信じられていたと思われる。時間は現代物理学がたまたま(?)そういう結論に達したように、一直線ではなく複層的に流れていた。

人の意識なんぞ、脳の活動をモニタリングするための幻影に過ぎない、だから脳が死ねば意識も消滅する、前世とか来世とか残念ながらありえない、というような冷徹に科学的なものの考え方がいつからあったのかは知らないが、そう唱える人がいても昔はあまり相手にされなかったかもしれない。
人は死んだらどこかへ行くし、生まれる前もどこかから来た。そう信じられる人からすれば、現世での時間軸は唯一ではないし、人生はここ一点を含む有限の線分であるという緊迫感も薄かっただろうから。

我々が今念頭に置く歴史年表的な一方向へ流れる時間という観念は、もしかしたら最近になって発明された考え方かもしれず、「時」というものに過剰に反応してしまうのも現代の我々特有なのかもしれない、などと思ったりもする。
有限の「時」というものが、なんとなく現代特有の観念であるというような感じを、僕は持っていたのだろう。それが古びた、歴史ありそうな地名としてそこにあることに、微妙な違和感を感じたのではないかと思う。

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ところで、せっかく好きになった地名ではあるが、現在では住居表示法上、時友という地名は消滅しており、市営住宅の名称とバス停等に名をとどめるのみである。
まさに時に埋もれていくであろう名前となっている。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

聞いたこともない歩いたこともない土地を文字の上で歩く。
それはなかなか、実際に始めて訪れた街を歩くのとも異なり、浮かびそうで浮かばない、
浮かんだってすぐ薄れゆく蜃気楼のような景色を見ているような、みていないような。
そんなところを揺蕩う気持ちで、自分が流れているのか、景色だけが流れゆくのか、ただ曖昧に感覚を遊ばせるのだ。

カマウチさんの土地案内に出てくる場所はどこも美しい正多面体のよう。
知らない土地をいくつかの角度から、頂点のような場所に向かって、風や薄明かりで虫を誘うように報せてくれる。
信じてそれらを頼りに歩くと、徐々に知らない場所へ迷い込む。
けれども要所要所で見知った何かを見せてくれ、そこは自分の知った世界の延長なのだとわかるのだが、徐々に後ろを振り向く回数が増える。
そうしながらも全ての角からそれへよじ登り終わったあと、最後はなぜだか、降りたつもりはないままに
地面で天を仰いで寝転がっていて、はて。これは夢だったのだろうか、と思う。

幻を見せてもいたずらに迷わせることはなく、けれどいたずらのように元いた世界へ連れ帰ってくれるようだ。
夢のような心地を背中に張り付けて仰ぐ空は、少し知らない空になる。

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