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3F/長期滞在者&more

身の丈に合わせない話

長期滞在者

身の丈に合った、という言葉は、「過大な望みを抱くな」的な、ウツワ通りの大きさで小ぢんまり生きとけ、みたいな圧を感じて好きではないのだが、それとは別の文字通りの意味で、昔から大きめの服を着るのが好きだった。というのも若いころから幼児体型でポテポテの腹をしており、身の丈通りの体型に沿った服を着ているとなんともみっともなかったのである。
二十代前半は劇団に所属していたので、発声的にも腹筋を鍛える必要があり、それなりにハードな練習もしていたのだが、劇団に来てくれるトレーナーさんに
「カマウチ君、若いのにみっともないよ。もうちょっと腹筋なんとかしないと」
「腹筋、ないことはないんですよ」
トレーナーさんの前で腹筋100回とかやってみせたら
「あらら、ちゃんとあるのね。たまにいるのね、腹筋鍛えてもその上の脂肪がなぜか取れない人」
と納得してくれた。そういう体質らしいのである。
その後演劇をやめて腹筋がなくなってもその都度の体型より大きめの服を着る習慣は続き、今から10年くらい前に一念発起して10kgくらいダイエットしたときには、もともと大きい服を着ているものだから余計に上着なんかがブカブカになってしまい、「なんか七五三ぽいね」と笑われた。あ、今はその10kgも戻ってるので問題ないですが(戻るなよ)。

物理的な意味でも抽象的な意味でも、ちょっとだけ身の丈に合わないことをする、というのは好きである。
抽象的な意味だと、たとえば若いころに、自分の理解を少し超える難しめの本を読むというのは、そののちの世界を広げるのに大いに役に立った。十年越しにあとから理解が追いつくということもあるし、わからないままのこともある。でも、わからない、まだわからない、という経験じたいが必要なのだと思う。わかることだけで世界が出来てるわけではない、というのは早いうちに知らねばならないことだ。
写真や音楽の世界だってわからないことだらけだった。だがわからないままで避けていたら、僕はロバート・フランクもグレン・グールドも好きにもならなかっただろう。届かなかった理解が、降りてくるようにわかる瞬間がある。その理解が三十年越しでやってくることもあると去年11月のこの頁でも書いた(グールド平均律クラヴィーア第2巻の話)。

ちょっとそれに関連するような、しないような、脇道話を少し。
昔インド料理屋で働いていたとき、インド人のコックさんが調理場で働きながらおやつのようにコリアンダーの生葉(パクチー)をつまみ食いしているので、美味しいのかと思って真似して齧ってみたら、まぁ臭くてたまらん。なんでこんなものを彼らは喜んで食べるのか?
まかないで出てくる辛いカレーに入れたら美味いということを知った。タイ料理にもよく使われるように、酸味や辛味の強い料理に入れれば合う、というのは慣れてくるとわかったのだが、それでもコックさんたちのように単独の生葉でパクパク食べるほど「美味しい」とは思えなかった。
しかし、それを「文化の違い」と片付けるのは何か悔しい気がした。なので毎日ちょっとずつコックさんたちのマネをしてパクチーを生葉で齧る練習をしたのである。
そして「そのとき」は突然やってきた。あのときの感動を今でも忘れない。
「・・・あ、美味しい」
新しい味覚が降りてきた。自分の狭く囲い込んでいた「正しい味」の柵が崩壊する瞬間を感じられたのだ。味覚の領土がぐんと拡大した。嗜好などというのはもしかしたら思い込みであって、こんなちょっとした訓練で変えられるのだと知った 。1週間ほど「訓練」しただけで、生葉が「平気」どころか「好き」になったのだ(注 ↓* )。
「カマチャン、インドノ人ミタイネ」
コックさんにも言われて誇らしかった思い出。今でもパクチーは大好きです。脇道終わり。
(注* : 体質的に駄目という人もいるらしいから無理して真似しないように)

次は物理的な話をする。
中学校の剣道部での話。全然強くない、目立たない部員だったのだが、弱いなりにその目立たなさ具合を打開したく、売ってる中でもかなり重い竹刀を使うようになった。もちろん基礎練習では損をする(まぁそれを「損」と言ってる時点で二流なのだが)。素振り200本、始めっ! 人より1.5倍重い竹刀を使っていると、もちろん人の1.5倍しんどいのである。
しかし乱取り形式の稽古になると強気になれる。重い打突で相手に恐怖心を抱かせられるのだ。速い技は打てないけれど、一撃一撃が重い。小手に入ると相手が悲鳴をあげたりする。速さで来る相手に、こちらはもっぱら重力で対抗する。ビビらせて勝つ!(かっこいいんだかセコいんだか)
ある日キシイ君という同級生が「カマウチちょっとその竹刀貸してくれんか」というので取り換えっこして打ち合ってみたら、彼は中学生にして180cm近くある大きな男だったので、天空から降ってくるような重い打突がバッコンバッコン面に決まって痛いったらありゃしない。痛い! 痛いって! 怖っ! 怖っ! ずどーん! ずしーん!
「カマウチ、この竹刀気持ちええなぁ。俺も次は重いやつ買おっと」
自分の弱さを補うために考えた重さ作戦だったのだが、本当に強い部員の間でも重い竹刀が流行りだし、結局僕は目立たぬ部員に戻ってしまったのだった。

もう一つ、重いと言えば僕の自転車である。
アラヤという日本のメーカーの、多少なら未舗装路も走れる、タイヤの太いグラベル系の自転車だ。
といってもマウンテンバイクほど自由に悪路を走れるわけでもなく、かといってタイヤの細いロードバイクほど舗装路を速く走れるわけでもない。オールラウンドといえば聞こえはいいが、まさに器用貧乏な車種であるともいえる。器用貧乏な僕に似合いだね(自嘲)。
この自転車が、重いのである。
カタログ値、13.9kg。前後にキャリア(荷台)をつけた上に買った時より太く頑丈なタイヤに交換しているので、おそらく車重は15~16kgあると思う。いわゆるスポーツ系自転車としては変態的な重さである。ママチャリとそんなに変わらない。
クロモリ(=クローム・モリブデン鋼、要するに鉄)製自転車はアルミ製のものより振動吸収に優れ、疲れにくいというメリットがあるが車重が重くなるのは避けられない。もちろん重いので上り坂は苦手だ。
しかし、何かを競うために乗ってる自転車ではないのである。重い車体で空気を割って進む感じは、僕は好きだ。よく自転車の快適さをたとえるありがちな比喩として「風を切る」とかいうけれど、僕の自転車は「空気を割って」もしくは「空気を押しのけて」進む感じ。あの厚ぼったさを「風」とはいわない。空気だね。
そんな重い自転車である。十年くらい乗ったら次は軽い自転車(クロモリでもお金さえ出せば10kg程度の軽いものがある)を買おうと思ったこともあったが、最近、収入が激減して経済的に余裕がなく、「次は軽い自転車買うんだ~♪ るん♪」みたいな境地ではなくなってきた。考え方のギアを切り替えねばならない。幸いちゃんとメンテすれば10年20年乗れるのがクロモリ製自転車のいいところでもある。このまま大事に一生乗ってやろうと思う。もうね、たぶん意地でも軽い自転車は買わないね。自転車は重くていい。決して強がりではないっ!
次タイヤ交換するとき、もっと太くして重量を増してやろうとすら思っている。
重い自転車に乗って、上り坂を喘ぎながら進む70歳になった自分を想像してみる。古人曰く、人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし。重い自転車に乗って坂道を汗かき上るのが人生だ。カモン老境! 

今回はなぜか過剰なもの、重いもの特集である。
そういえばよく言われるのは、僕は持ち歩くカバンも大きい。
普段使っているのはリュックかメッセンジャーバッグだが、両方30リットル以上の大きめのもので、いつも満載にものが入っている。
どれだけデカいカメラとかレンズとか入っているのかと訝しがられるのだが、僕はカメラはいつも一台しか持たないし、交換レンズも使わない。コンパクトカメラしか持たないときも多い。
じゃあカバンに何が入っているのかというと、う~ん、別に何も特別なものは入っていないのだが。どうして荷物が増えるのだろう。
自転車に乗るので、汗をかくから替えのTシャツくらいは入ってる。いつでも何かメモれるように(たとえばこのアパートメントの原稿のネタを思いついたときなど)B5版のノートが1冊。布製のペンケースにボールペンと鉛筆と油性マジックと小さい定規とスティック糊とハサミと肥後守。いついかなる暇ができるかわからないので読みかけの本が1~2冊スタンバイ。充電コードごとiPodが入ったポーチ。弁当に水筒。常用薬や薬手帳や絆創膏や湿布や爪切りが入ったポーチ。3種類くらいのカメラ用電池が入ったポーチ(持って出るカメラに合わせていちいち予備電池を探して持ち出すのが面倒くさいので)、いつブックオフで掘り出し物を見つけるかわからないので本が5~6冊は入るトートバッグ、それを自転車の荷台に吊り下げるためのカラビナ2つ。自転車で遠出した帰りにスマホの地図が見れなくなったら怖いのでモバイルバッテリー。方位磁石に簡単な裁縫セット、雨に降られたときのためのカバン用防水カバー、突然の地震で瓦礫に埋もれたとき役に立ちそうでクマよけの鈴とホイッスル、等々。
・・・・う、けっこう入ってるな。
何でもかんでも入った大きなカバンを持ち歩くのは「長女だから」。あ、これわかる人いるかな。ヒント、吉田秋生の漫画。僕は長女じゃないですけど(長男ではあります)。

最近クロームの最大容量38リットルのでかいリュックを手に入れた。ますます何でも運べるぜ。大きなカバンは楽しいね。
巨大なリュックを背負って重そうな自転車ひいこら漕いでるロン毛男を見つけたら声かけてください。首からカメラ(ニコンDf かフジX100s)が下がってたら、多分それ僕ですよ。


カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

身の丈とはなんぞや。
はたからみたものも、自分自身としてもあってないような、けれどもなんかあるよね、みたいな、半透明のビニールみたいな。ナニカシラの範囲を規定しようとするモノ。

これって、身の丈に合ったシアワセ、とか、なんとなくそれっぽい有難いもののような、ウッセェと蹴飛ばしたくなるような、その時々の心持ち次第で天と地ほど受ける気持ちが変わってくる。

少し背伸びするから拡張する部分と、持っているカードをまじまじとみつめ、俯瞰するからこそ繰り出せる技とがあって、人間どっちだって間違ってはいないのだろうな、と最近は思う。

ただ、こういう毒にも薬にもなりそうなもの(身の丈、というこのコトバ)には負けてはならない。勝たねばならない。薬として使ってやるのだという強い意志が要る。そんな気がする。

でも、それを、その範囲みたいなものを規定するセンスってあるよねっていう。

自分自身を過大評価や過小評価をしていては、結局その身の丈という基準が使いこなせない。

奥が深いぞ身の丈。

わたしは多分そのセンスがあんまりないので、自信を持てばいいのに、と、言われる場面と、もうちょっと自分をいかしなよ、とか、なんでそんな無茶するんだと言われる場面ばかりがある。
わからん。
ただわからんだけなんよ。

自分の身の丈からちょっとはみ出る それを意識的にやれるってのは、すごいことなんじゃね?と、思う。
全部わからん!わーっはっは!でもこういうのは無理だ!嫌いなものは嫌い!それだけ!あとはまぁ、楽しもうとすれば楽しめるんじゃね?みたいな豪快な自己分析で生きてきたので、ザルなんですよね。なにかと。

ちょっと背伸びな冒険してやろう!みたいなムフフという企みができるというのは、厳密には馬鹿にはできないのだろう。馬鹿にはいつだって何だって冒険であり、どんなに新鮮なことも、ありきたりなことも、ひとしくざっくりと日常だ。

身の丈って、わからないものだけど、意識して使いこなせれば、いいモノサシにもなるのかも。やっぱり、毒にも薬にもですね。
なんだかお若い時から使いこなしてるかんじがするカマウチさん、カッケーぜ。
と、内容そのものについて、というよりかは、カマウチさんとご自身の規定する身の丈の感覚にほほぅと思って読んでいたわたしなのでした。

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