長期滞在者
山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』(河出書房新社) 山内マリコさんの小説は、いつもタイトルが素晴らしい。 『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』『さみしくなったら名前を呼んで』……。どれも初期の作品だけど、耳に残る七五調で、短歌のように数文字で作品世界の色合いがしっかりと喚起される。 『選んだ孤独はよい孤独』というタイトルも、この初期の作品たちと同種のリズムを備えている。 でも、浮か…
当番ノート 第39期
抱きしめられるのが、恐ろしく下手だった。 下手ぶりを説明しようにもサンプルが異様に少ない人生なわけだが、とりあえず初めての恋人から「第1回・抱擁」をしかけられたときも、私は非常に緊張していた。 どのくらい緊張していたかというと、向こうが私のあまりのガチゴチぶりに、腕を離して「ウーン、こんなに固くなってる人は初めて見た……」と唸っていたほどであった。 私の記憶では、交際から2、3ヶ月経っても…
当番ノート 第39期
「魂に触れる」 谷川俊太郎 軽いやわらかい毛布の下に 恋人のあたたかいからだがあって ふたりは手をつないで仰向けに横たわっている ふたりの目は白い天井に向けられていて どこにも焦点をむすんでいない モーツァルトのケッヘル六二二のクラリネット協奏曲 第二楽章アダージョが聞こえている初秋の午後 若い彼らは完璧な幸せがもたらす悲しみに それと気づかずに浸っている 「昨日またサリエリに会ったよ」と男が言う…
長期滞在者
目の前の暗い地面から潜水艦のようにせり上がった黒い小さな楕円体が急に地面からちぎれて駆け去った。 あわてて自転車をとめて行方を目で追うと、小さな小さな黒猫だった。 あまりに小さいので猫らしくなくて、まるで機械仕掛けの偽猫のようだったが、地面からちぎれて出現したのと同じように、道路脇の茂みに溶けて消えた。 ◆ 新撰組の沖田総司が肺結核で隊を離れ、知り合いの植木屋で療養生活を送っていたとき、庭に毎日黒…
当番ノート 第39期
「いや、ほんとにあんな好青年は見たことがない」とサー・ジョンがくり返した。「去年のクリスマスに、うちで小さな舞踏会を開いたときも、午後八時から午前四時まで踊って一度も腰をおろさなかったんだ」 「えっ、ほんとに?」マリアンが目を輝かせて言った。「最後まで優雅に元気よく?」 「もちろん。しかも朝八時に起きて、馬で狩猟に出かけたんです」 「私、そういうの大好きよ」とマリアンが言った。「若い男性はそうでな…
長期滞在者
今では遠く離れた友人知人のことも、SNSのおかげで距離を感じさせることなく近況を知ることになり、実際に久し振りに会う人でも、あんまり久し振りの感じがしなかったりする。20代の頃、高い遠距離通話料金が払えなくて、いつ来るかわからない地元の友人たちの手紙がポストに届くのを、気長に待つのが辛うじての交流という時代を経験した身からすると、どちらかといえば便利な世の中になったと思います。先日もタイムラインで…
長期滞在者
昨年の4月のこと。ラジオレッスンの新入生の生徒が、レッスン後に1人でそっと近づいてきて、こんな質問をされた。 「先生、韓国のアーティストを好きなことをあまり話さない方がいいですよね?」 「どうして?」 「だってネットとかには、韓国のことを悪く言う人が多いから、私が韓国のアーティストを好きだというといろいろ言われちゃいますよね?」 「何を言っているの! あなたが好きなことは堂々と話していいんだよ。自…
当番ノート 第39期
あとわずかの高校生活、残るイベントもあとは卒業式だけになった頃、東京の大学に合格が決まった。 その晩、突然母が髪の毛を染めてほしいのだけどしてもらえない?と言った。髪の毛を加工することが嫌いな母は、これまで美容院に行ってもカット以外ほとんどすることがなかった。そんな母が髪の毛を染めるなんて一体どうしたのかと尋ねると、前々から白髪が目立つようになってきてな、と言った。母はずっと黒くて丈夫な髪の毛が自…
長期滞在者
土曜でもいいし、連休のなか日でもいい。とにかく、きょういちにち休日をめいっぱい味わって、気心の知れた友人たちと、夜ごはんを食べたりなんかしながらゆったりおしゃべりして、そろそろ終電に近いような時刻に帰宅している。明日もお休みだから、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫。 休日の街の空気には、ざわざわした人の気配やおいしそうな匂いが混じっている。この空気を吸いこんでいるだけで、自分まで、どことなく有意義…
当番ノート 第39期
ハロー。 僕は今、香港に来ています。 香港は20歳になる時に来て以来、2回目になる。 近くて遠い、いつも特別で憧れがある。 王家衛の映画の影響が強いんだろうと思う。 僕の場合は「天使の涙」がとても好きで。 この映画のラストシーンは最高だよ。 香港は大きく分けて二つの島、 九龍と香港にに分かれていて、 僕は香港側に滞在しています。 日中はそれはもうとても暑くて、少し歩くだけで熱気と湿気で息苦しくなる…
Mais ou Menos
———— まちゃんへ 最近、考え方を変えようと意識している。 先月は仕事もまだ慣れていないからかもしれんけど、気持ちが落ち込むことが多かった。自分なりに自分を見つめ直して、今までの自分の考え方のクセについて分析した。 まず、自分の性格の特徴としては、 1. 内向的なため、一人の時間が必要。 2. HSP (Highly Sensitive Perso…
それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。
この連載のはじまりで、私が東京で最初に暮らしたアパートでの不思議な出会いに少し触れた。東京の外れの女子大に通う5人の女の子と、ひとりの初老の外国人の共同生活の話。最初このお話は「あっさりと語るべきだ」と思った。あまりに強烈な愛情と衝撃が渦巻いた、この時期を経て私は完全に違う生き物になってしまったと言わざるを得ないような時期の出来事だったから、その場にいなかった人も耳を傾けてくれるように「できるだけ…