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5月

スケッチブック

愛でる時間は、たっぷりあった。
考える時間は、細切れだった。

5月1日(金) 晴れ

布団の中で考えていた。言葉や文章を柔らかくしておくこと。輪郭をガチガチに固めてしまうと、閉じ込められた中身はそこからどこにも行くことができない。中身が本質を捉えている、輪郭がその本質を囲っている、その上で、解釈のスペースは空けておく。余白と余韻を含んだ文章、言葉を目指したい。

躍動感。昨日、動画で見たピカソの、まるで踊っているような線のように、生命力の宿った言葉を。

寝かしつけのあと、ふと本棚の目に止まった詩集を手に取った。「美しい街」。生活の一瞬、床に寝転んで見上げたら窓の光と埃の交わりに気づくような、なにげない点の詩がたくさん綴じられている。ますます眠れなくなって、同じく買いっぱなしになっていた「天国ととてつもない暇」も読んでみた。タヒさんは、この時代の心をぐるぐると旋回しながら、縁取っていく感じ。対照的なふたつの詩集。

無性になにかが書きたくなって、書き出した文章は、結局しおへの手紙になった。

5月2日(土) 晴れ   

新緑の透明感。光が遊んでいる感じ。
若葉は光を通す。
吸収も反射もするけれど、残りの光は葉の体を通り抜けてくる。
葉が風に踊るとき、光も多方向に揺れる。万華鏡みたいに、多層に。
夏になると葉はもっと丈夫になって、色も濃くなる。
光は木々の葉の隙間だけを降るようになる。
光も影は強くなって、境界がはっきりとして。
夜空の星のような集中した光が、こんもりと繁る葉の隙間から届いて、揺れる。
春の始まりは、もっとやわらかくて、あいまいで、透明だ。ほわほわしている。
生まれたてのあかちゃんにも、どこかそんなところがあった。

5月3日(日) 曇り

午前中はしおとの時間。朝、順が焼いたパンで一緒にサンドイッチを作る。保育園が休園になってからというもの、キッチンで長い時間を過ごすようになった。ひとつひとつの工程に、しおにとっての「しごと」がある。先日は、高野豆腐と一緒に煮る人参を、やわらかくして、しおにクッキー型を渡して、うさぎや星型にしてもらった。今日のサンドイッチも具材を色々と用意する。卵を茹で終わっても、まだ殻を向く工程がある。よし、30分使えた。ツナはマヨネーズを入れて混ぜる工程がある。アボガドは柔らかいから、安心して切ってもらえる。トマトはヘタをとってもらう。1時間経過。庭にバジルを摘みに行く。加減を知らず、全部摘み取ろうとする彼女を慌てて止める。ハンバーグを解凍するのに、レンジのボタンを押してもらう。そろそろ2時間。きゅうりのスライスまでやりたがる小さな手をハラハラしながら手先を見守る。そうしているうちに、午前中の仕事時間を終えた順がやってきて、揃ってお昼を食べて、午後は私が仕事をする。「保育時間」の終わりにご飯もできているという小さな達成感が、私を救う。


5月4日(月)雨のち曇り

本の原稿に手を入れる。あらためて見ると、エピソードの主従を入れ替えたほうが良さそうなところが随所にある。昨日の午後、みんなが庭仕事をしているのを傍目に、スペクテイターの「クリエイティブ文章術」を読んだ。ニュージャーナリズムの特集で、アメリカで生まれた手法が日本化される過程を捉えた文章のなかに、こんな一文があった。

“ニュージャーナリズムでは、現場で取材してきた事実を、ドラマやシーンに再構築する方法がとられるのだが、人工的なものを嫌い、自然主義小説の伝統の強い日本の風土にこれが置かれると(中略)「生硬で不自然、あるいは表層的なものとして嫌煙されてしまう。それに対するひとつの答えが、沢木耕太郎による「私ノンフィクション」(略)もう一つは、日本の読書人が内向的な傾向を強く持つため、客観的なシーンの丁寧な描写よりも、内的な体験の共有を強く求めるということである。これに答えてみせたのが、立花隆の『宇宙からの帰還』であった。”

自分の今書いている本は「私ノンフィクション」の領域に入る。問題は、内的な体験が、取材相手のそれではなく、自分の内的な体験に偏っていたことかもしれない(読者として、自分も強く求めがちだ)。遠いアフリカの取材相手の言葉を鍵に、自分の内面を旅していく構成を試みていたけれど、それだけでは相手のもつ深さが掘り下げられていない。

井上(ひさし)は、「ストーリーは国境を越えやすいものだ」と言う。人類には普遍的な物語に対する本能があるようで、たとえ国籍や言葉が異なっていても混沌とした現在を、ストーリーという枠の中から見て整理していく習慣が自然と身についているという意味。であれば、物語の力を強めなければ。

社会の波頭の先端で動いている人を、そのシーンを追いかけて書いていく。今となっては新しくもない手法だけれど、それが生まれた時代に立ち戻って知り、原点に立ち返ったことで見えるものは大きい。

ヤン・ウエナーの「インタビューにおける “the story behind the story”」 という言葉が刺さった。相手の言わんとする言葉の裏を読み、物語の中からもう一つの物語をあぶり出すといこと。「いわゆる喋り声とか話し声とかそういうのじゃなくて、何かがしゃべっているように聞こえるもの」にたどり着きたい。

5月5日(火)晴れ

午前中をしおとの時間にする。いかにも花粉が飛んでいそうで、外に行きたくないなあと渋りながら振り返ると、しおがこども用のハサミで自分の髪の毛を切ろうとしている。肩のあたりの毛を掴んで、「あー!」という、私の反応を伺って、じゃきじゃきっと切って、けらけらと笑っている。楽しそう。意外にもウルフカットっぽい。

「かあちゃんの髪も切ってあげる」という。前髪は致命的になりかねないので、後ろを切ってもらうことにした。ざくざく、じょきじょき。背中の不穏な音を聞きながら、どうせ誰にも会わないし、やりたいようにやってくれと思う。考えてみれば、自分の髪なのにプロ以外が触っちゃいけないなんて窮屈だ。窮屈な人には、なってほしくない。

夕飯時ちーちゃんとzoomをつなぐ。「まだかな、まだかな」と言っていたしおは、画面にちーちゃんが映ったとたん、破顔して、顔を両手で覆って、背を向け、くるりと体を丸めて、ソファーにうずくまってしまった。つい「ちゃんと言葉で挨拶しなさい」と言ってしまったけれど、小動物みたいな反応こそが、なによりの素直な感情表現だったと後になって思う。

5月6日(水)曇りのち雨

どうやらゴールデンウィークだった。と気がついた時には、もう終わりかけ。しおは、みほちゃんが依頼してくれた絵を描いている。「かけないよー」と言い、「しお、原稿しなくっちゃいけないから!」と言い続けているのが、誰の真似なのかは、考えないことにしておく。

家のみんなで、LA・LA・LANDを見た。あらためて見てみると、オープニングのミュージカルの歌詞は、ちょっとした文法の遊びで、物語のクライマックスを示唆しているし、渋滞に対する主人公の変化の描写は、ありがちだけど上手い。最後まで見れなかったので、しおを寝かしつけた後に監督のインタビューを読んでいたら、ラストを変えるように何度もスポンサーから圧力をかけられながらも、絶対に曲げなかったというエピソードが紹介されていた。主人公の2人よりも、見えないけれど存在の大きな、「3人目の主人公」に忠実であるためだという。これも、ある意味「何かがしゃべっている」のが聞こえる構成。

5月7日(木)晴れ

午後に順が打ち合わせとのことで、午前中が私の執筆仕事になる。「Songline」(ブルース・チャトウィン)を目の前に置いておくことにした。相手と自分、そして大きな声との絶妙なバランス。「私」をきちんと語りながらも透明な存在であり、大胆な旅をしながらも文章は静謐。ドライヴ感がないのが辛いけれど、手探りの旅の空気や、思索の時間、読み手に委ねる余白からは、学ぶことだらけ。

今日の「保育」は、どくだみ茶をつくること。窓辺に干しておいたどくだみを取り込んで、しおとハサミでちょきちょき葉っぱを切りわけていたら、保育園から電話がかかって来た。「休園が延長になってしまいましたが、大丈夫ですか?」と。こんな風に気にかけてもらえるなんてありがたい。私から出でくる言葉は「大丈夫です」ばかりだった。

先生と話しているうちに、「今度はお父さんをお手伝いする!」と順のところに行こうとするので、どくだみ仕事は中断して寝室でぬいぐるみ遊びをする。ごろんと布団に寝転がって、しおのごっこ遊びに付き合っていると、「見立て」の力に感心させられる。ベランダから拾ってきた松ぼっくりや、ちぎってきた木の葉っぱが、クッキーや、大根の煮物や、おにぎりになる。ぬいぐるみたちに食べさせてあげるらしい。「みんな、お昼寝しましたー」というので(できれば本人にも昼寝してほしかったのだけれど)公園に行くことにした。

ストライダーに乗って、小さな背中は光の中をかけていく。

「大丈夫です。楽しんでます」自分の言葉の揺り戻しがある。母として、こんな幸せな時間はないし、同時に、仕事もいま何かを掴みかけている。相手が時間を持て余しているのなら話を聞いてみたい人がたくさんいる。でも、私に、時間がない。


5月8日(金)晴れ

「空を見てよかった」(内藤礼)が届く。表紙にえぐられたような印象的な傷があり、それは、カバーだけでなく本そのものにもついていた。デザインかなと思ったけれど、一晩経って意図されていない傷だと気がついた。一見、真っ白に見える表紙に、よく見ると色彩がうかびあがって、ひとこと、タイトルだけが箔押しされている。デザイナーのこだわりが詰まった本。できればその意図だけを受け取りたい。値段もそれなりに高い。でも、返品されたあと、どうなるのだろうか? やっぱり破棄だろうか…。そう考えると、なんだかできなくなってしまい、そのまま本棚に入れた。
地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」
本そのものが、問いかけてくる。


5月9日(土)曇り

「りんごの木のしたであなたを産もうと決めた」(重信房子)を読む。エッセイの形をとった裁判所への上申書。 娘さんである重信メイさん の「アラブの春の正体」から、この本の存在に行きついた。時が経つほど、私がかつてのアラブへの旅や「革命」で見たものと、私のいる今の社会や文脈とあまりの違いに、あの時の感じたことや、それを感じた自分自身を信じられなくなっていたけれど、どっぷり浸かった人の言語化には頷くことが多い。抑制の効いた文章に人の体温がある。アラブ世界の人情、信頼の示し方、仲間意識、神との関係、つまり、命の使い方。中古の本は誰から渡ってきたのだろう。「ただ、私が今言えることは、アラブの価値基準が普遍的な世界のスタンダードではないように、日本の価値基準もまた普遍的なものではありません」という一文に、ボールペンで赤線が引かれている。

5月11日(月)晴れ (午前中、しお担当)

午前中はしお担当なのだけれど、届いたばかりのレベッカ・ソルニットの「災害ユートピア」が気になって、つい読み始めてしまう。最初から線を引きたい箇所ばかり。しおの色鉛筆を借りて引いていたら、しおも作業に加わって、ページが色だらけになる。そのうち飽きたのか、彼女の遊びは郵便屋さんごっこに変わり、ベランダから松ぼっくりを拾っては机の上にちょんと置いていく。

昨日、コーヒーを入れにリビングに行ったら、順としおがトトロを見ていて、ちょうど、メイとさつきの蒔いたどんぐりがトトロによってあっという間に森になっていくシーンをやっていた。あの爆発的な力が、いま目の前にある。ついこの前まで、点々と芽吹いていた木の葉が生い茂っている。しおがベランダの柵まで伸びた木から、顔よりも大きな葉っぱを何枚も取ってきた。

5月12日(火)曇り 

午前中、順が「体調が悪い」と寝込んでしまう。私はJesseと電話の約束をしていた。彼はアメリカにいた時のハウスメイトだ。「キャッチアップしない?」と何気ないメッセージが来たのは昨日のこと。「明日にしよう」と即答した。早くしないと私が、勝手にこじらせそうだった。

数年前、彼と喧嘩をした。たぶん向こうは喧嘩とさえ思っていない。感情を爆発させるということがなかなかできない私は、怒る代わりに泣いて、怒っているのに、なぜか責められもしないことに勝手に謝まり続けた。謝まることで相手にも謝ってほしかったのだと思うけれど、そう上手くは伝わらない。変に慰められて、ますますくすぶらせたまま帰りの飛行機に乗った。国際線の中で10時間に渡って長いメールを書いたけれど、結局、送らぬまま今に至る。

ずっと引っかかって連絡を取っていなかったけれど、もうこの機に水に流したい。いい加減、いい大人。

空白の数年間を埋めるのに、40分では全然足りなかった。zoomを繋ぎ直すと、彼は画面の向こうでギターを抱えていた。「なにか、弾いてよ」彼もその言葉を、待っていたと思う。

軽快なギターに乗せた即興が始まる。「やあ、あきこ。yah yah 」
そんな風に言語化できないものを、伝えれたらいいのに、と思う。それを持たない私は、照れくさくても、画面をちゃんと見て聞くことしかできない。

これが恋愛感情だったら、言葉は溢れるほどに存在したはずだった。友人でも、まだいくらか語彙がある。急ごしらえの兄弟のような、家族のような人。ふたりだけの同居生活。私たちはそれぞれの恋愛、将来のこと、幸せや葛藤に、ぐるぐる巻きになりながら、お互いにめんどうくさい性格で、頑固だった。どこまでが関わりで、どこまでが干渉なのか。どこまでが支え合いで、どこからが行きすぎた甘えなのか。ハナレグミの「友達のようでいて、他人のように遠い。愛おしい距離」が常にそこにある暮らしで、同居人じゃなくなった後も、しばらくは距離感が掴めなかった。

「なあ、あきこ、これまで長すぎたよなー。俺たちなんで、こんなにも話していなかったんだろうなー? Oh Oh 」

時折、不協和音が混ざった同居の終わりに、ピアニストの彼は「ばいばい、あきこ」というインストの曲を作ってライブで演奏してくれた。あの時の闇のなかをいくような曲とは全然違う今日の歌。明るく、ひねりの効いたなメロディーにシンプルな言葉。聞く私の心も軽い。

時間と距離が削ぎ落としたものがたくさんある。あの頃も豊かだったけれど、いまの、このシンプルで軽やかな関係もいいね。もっと頻繁に気軽に電話しよう。これからは。

順の熱はどんどん上がっていく。アルコール消毒で手すりやドアを拭く。「自主隔離する」というので、2リットルの水を籠城の体制を整える。下の部屋に布団を敷く。 りっぴに借りた客用布団を敷いて、しおと潜り込む。できるだけ楽しく、冒険みたいになるように、「今晩はキャンプだよ!」と言い続けた。実際には、洗濯物やら、電子ピアノやら、おもちゃの棚やらに囲まれた、小さな船の中みたいだ。

布団は一組。すぐに彼女の寝相に追い出される。リビングで長い手紙を書き終えて、今度は送る。 いよいよ明日はSと電話をする。 


5月13日(水)晴れ

順はまだ籠城している。コロナの症状ではなさそうだけれど、なんとなく心配らしい。

Sと約束していた電話は、wifiが悪いのかなかなか繋がらない。お昼の焼きそばを先に用意しておこうと、しおと長い時間をかけて、人参、しいたけ、玉ねぎを切った。Sからの折り返しを、そわそわと待ちながら待っていたけれど、やっと電話が繋がるや、しおに切られてしまう。連日、私が誰かと話をしているのが気に入らないらしい。 何度繋いでも切られて、結局、諦める。本当に楽しみにしていたのに。

しおは、やっぱりハンバーグがいい、と言いだす。微妙に変更できてしまうのが、また悔しい。ひき肉を解凍し、切った野菜を全部ミキサーにかける。卵を割り入れるという段で、しおの手から卵が床におちる。最後のひとつだった。ふいに泣きたくなった。 下を向いているところに、えりちゃんが降りてきて、卵をもらう。その後も「手を入れてこねないで!」「フライパンじゃなくてオーブンがいいの!」と斜め上の要求が続く。しおも普段と違うリズムに苛立っているらしい。

食後はしばらく、えりちゃんがしおと映画を見てくれた。その間、畳に寝転がって少しだけうたた寝をして、もう少し頑張れる気がしてきた。おやつに、なんとなく3人で庭に出てプリンを食べていたら、りっぴが帰って来て「夜ご飯もお庭で食べましょうか?」と素敵な計画が生まれる。夕方、ソファーで寝てしまったしおりを置いて、ひとりで買い物に行った。スーパーに行くだけなのに、こんなにも気が晴れる。帰ると順が起きていた。熱は下がったらしい。

庭のベンチにご飯を並べると、しおはとっても嬉しそうだった。そんな素敵な夜ごはんが終わると、またも順の熱が上がってしまった。また下の部屋で眠れない夜を過ごすのか。だるそうな順に対して、純粋にケアの気持ちで接することができない。その余裕のなさも苦しくて、モーターがぐるぐる回って加熱してみたいだ。いざ布団に入ると、今度はお腹が痛くなってきた。ままよ、と2階の寝室にあがる。いつもの布団でぐっすり眠った。

5月14日(木)晴れ 

順は調子を取り戻したらしい。今度は私がぐったり。

5月15日(金)曇り

しおが「ねえ、お話して?」という。なんのお話がいい?と聞くと、「おじいちゃんとおばあちゃんの家にいきたい」という。飛行機とか新幹線には乗れないけれど、鳥さんに頼んでみようか?と提案すると、嬉しそうに「うん!」と弾んだ。じゃあ、いつも、隣の家の庭にエアを食べに来るインコにお願いしてみようか? 「うん、お願いしよう!」

インコさんは言いました。目をぎゅっとつぶってごらん。そして目を開けたら、私は大きな鳥になってあなたを背中に乗せてあげるよ。でもおじいちゃんたちのお家はとっても遠いから、富士山の麓までね。そこで、仲間の鳥さんにバトンタッチするよ。

「きいろのとりさんがいい!」

そしたらきいろの鳥さんに迎えにお願いしておくよ。

「かあちゃんもいっしょにいこうね、むらさきのとりさんにもおねがいして」

富士山の麓で、黄色と紫の鳥に出会い、大阪へ。大阪からこんどは、白と水色の鳥に出会い、さらに中国地方へ。と背中に乗せてもらった。



5月16日(土) 

気づくとジーンズのリメイクについて調べている。ぼろぼろなジーンズが2本。合わせてスカートーにできないかと思いついてしまったのだ。アップサイクル、という言葉を初めて知る。しおとの時間、5分でできるDIYという動画をたくさん見て、まずはタイツからヘアバンドを作ってみる。小さな達成感に飢えている。

5月18日(月)

「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる強さを、そして両者を識別する賢さを与えたまえ」

友達に、祈りの言葉を教えてもらった。アルコール依存症の人達がリハビリの時に唱える祈りらしい。「一度人生を壊してしまった人、それも自分で破壊してしまった人が、もう一度やり直そうとするとき、そこにある優しさはすごい」と彼女は言っていた。

私にもこの祈りが必要だ。取り戻せない昨晩の夜更かしにも、もっと大きな後悔にも通じる祈り。

調べていたら名言集のようなサイトに行き当たって、ついでに「初」についても知る。衣と刀。着物を作るにはどんなに美しい生地であってもはさみを入れねばならない。それが初、であり初心、という解説だった。人は変化しようとするとき、どんなに辛くとも自分自身に鋏を入れ、過去の自分を切り捨てなければならない…云々。なんにせよ、昨日、ジーンズをとりあえず裁断してみたのは、たぶん良かったのです。


5月21日(木)

Valeria Luiselliという作家のオンライントークに参加する。アメリカ時間の夜に合わせて、朝の3時半に起きたので、とにかく眠い。眠くて21時にはなんだか不機嫌になっていた。保育園休園が始まってから、毎朝5時に起きている順が、もう無理!としおより先に寝てしまうのを、苦々しいと思うことがあるのだけれど、こういことらしい。

しおはそれでも、絵本をせがむ。

「ねえ、「こんとあき」読んで。お母さんが小さな頃に好きだった絵本読んで!」

遠くに出かけるのが好きならこの話も好きだろうと、読んであげたらすっかりはまってしまったらしい。ここ数日、毎日せがまれて何回も読んでいる。暗闇でも諳んじられるだろうと思っていたら、意外と一字一句とはいかなかった。絵が語る設定がとても多くて、絵がないと言葉で補う必要がある。台詞もそこにあるはずのものが、いくつか抜かれている。上品な余白があるんだなあ、なんてことを考えていたら、頭が冴えてきてしまった。

「もうずっと、ずっと座っていようね。そうしたら、つくからね」

頼むから、このまま電車がとまりませんように。眠りにつけますように。

5月22日(金)

1日かけて、ドミニクチェンさんの「未来をつくる言葉」を読み込む。編集者のYさんが「参考になるかもしれない」とメールをくれたのだ。付箋だらけ。

5月23日(土)

「ひさしぶりにお惣菜が食べたい」というみんなの意見が一致して、揃って買い物へ。緊急事態宣言が始まって以来、買い物は駅と反対側にあるスーパーと八百屋にしか行っていなかった。大通りに出るのはひさしぶりだ。人酔いしたのか、吉祥寺駅に着く頃には気持ちが悪い。「あっこさん、公園の空気しか吸ってなかったら、排気ガスかもしれないですよ」とりっぴがいう。たしかに空気が臭う。海の近くに引っ越して行ったまさきくんが、東京はくさいっす!と言ってたっけ。

糖分補給!と、順がたい焼きを買って来てくれた。座る場所はどこにもなかったけれど、食べたら元気になった。スーパー、輸入食品店、100円ショップ、西友の花屋、お豆腐屋さん。。。普段なら絶対に行かない数の店を回って、持っていったエコバッグ6個に、到底入りきらない量を買って戻ってきた。自分たちの中にこんなに物欲があったなんて、と驚くのは、あの時以来だ。

「なんかさ、キューバからチリに行った時のことを思い出すね」と、順が同じ瞬間を思い出している。あの時、足りてないものだらけのゆえに車でも家でも自分たちで直して使っている素晴らしい国から、資本主義のど真ん中に移動した私たちは、普段毛嫌いしているショッピングモールに行って、隅から隅までお店を見て回ったのだ。あんなものもある、こんないいデザインがある。そして、結構な量の買い物をした。なくても生きていけないけれど、あったら心浮き立つものを。
爪やすりだけ買うつもりで入った100円ショップで、しおのベランダ遊びに良さそうなビーチサンダルを見つける。花屋には野菜の苗を買いに行ったのに、気づけばダリアの鉢植えを両手に抱えている。いつか育ててみたいと思っていた花をついに買ってしまった。しおが「欲しい」と言い張ったとうもろこしと、二十日大根と、おくらと、人参のたねも、いいよいいよと買ってあげる。なくても生きていけないけれど、気持ちは浮き立っている。


5月24日(日)

梅ジュースをつける。 しおが買ってきた大量の種を植える。洗濯。掃除。あれこれしているうちに、あっという間に週末が終わる。充実だったー!と順は満足げだ。こっそり本を読む時間もなかった。


5月27日(水)

昨日のしおとの時間に、順は公園の反対側にあるクレープ屋さんまで行ったらしい。今日も行く?と聞くと「いく!」と張り切ってストライダーを蹴り出す。

ベンチに座って、クレープを食べていると、カラスが周りを飛んでいた。怖がっていると「しおは怖くないよ、守ってあげるよ」という。公園の反対側は背の高い木々に覆われた小さな林。ほとんど人がいない。歌を歌ったり、かくれんぼをしたりしながら遊んでいると、ピコンと携帯が鳴った。「なんか、思い出してさ」と、友人から、しおが生後3ヶ月だったころの頃の写真が送られてくる。

先日、仲間うちの夫婦に最近赤ちゃんが生まれて出産祝いを送った。その夫婦も含めたスレッドで、少し前のメッセージには生まれたての女の子が写っている。今の姿も写真で送ろうとして、しおを探したら麦茶のマグを空に掲げて森に乾杯しているところだった。

帰ろっか。ストライダーはまた素早く公園をかけていく。この2ヶ月で、できるようになったことが沢山ある。井の頭公園一周。石渡り、木登り。昨日は、高野豆腐とナスをつくる!といって、材料を全部切った。炒めるのは油が飛ぶから大人がやると言うと、「フライパンに蓋すればとばないよ」と改善案まで出してくるから驚いた。
「戻れない、思い出せない時間があるから、大変だけど、どうかどうか、今を大事にね」しおに取り上げられて、送れなかったメッセージ。あの頃、同じことを言われた私は、頷けなかったから、送らなくてよかったかもしれない。でも、今、痛いほどに思う。今、このときも後から振り返ったら、切なくなるほどに愛おしいんだろう。

5月28日(木)

神社の入り口で紙を花吹雪みたいに下から投げるとご利益があるらしい。鳥居の扁額は「マスク着用!」の文字に書き換えられて、電飾でピカピカ光っている。写真を撮って順に送ろうとしたところで目が覚めた。ヘンテコな夢。コラージュ的な夢だった。時空と登場人物が変に入り組んでいた。

「ねえ、お話ししよ」布団の中で、今日もしおが言う。「しおが話してよ」というと、「しおはおっぱいの中に住んでいたんだよ」と始まるから、何か恋しくなっているのかもしれない。彼女のお話の世界はパッチワーク的だ。お腹の中の時や、お空の時の話に、昼間の会話や、絵本の場面が縫い付けられていく。

過去と未来の交差点は「今」でもあるけれど、もうひとつの交差点に「夢」があるような気がする。

5月29日(金)

朝からしおと公園一周。携帯電話を忘れて出てしまった。遠くまで来てしまったので、お昼を食べて帰りたいのだけれど、順に連絡する手段がない。先日のクレープ屋さんに入って、電話を貸してもらってお金を払えばいいのだけど、つい声をかける勇気が出ずに公衆電話を探す。小銭を入れたのは10年以上ぶり。旅先で知らない誰かに携帯を貸りる事態は何度もあったというのに、地元でそれができないというのは、どういう心理なのでしょう。

5月30日(土)   真夜中のミシン。  

また眠れない。思いきって起きることにして、リビングに降りる。
押し入れからミシンを出してみた。
電源を入れて見ると、ぶん、という音とともに、緑のランプが灯る。

いま、静かに興奮している。

母のミシン。裁縫が得意とか、好き、とかではなかったと思うけれど、お稽古カバンやら、小学校にひつような巾着やらを縫ってくれたことを、覚えている。

白い糸がかかっていた。最後に縫ってくれたのは、しおの保育園のためのシーツだ。あのシーツがしおの日常から必要なくなる日が来てしまうことを、私はかすかに恐れている。

念のためにと、まず針と糸で仮縫いをすると、全然ちがう場所まで巻き込んでいる。むしろアイロンを当てるほうが近道かもしれない、と、今度はアイロンを出してくる。ハンガーにかけて確かめると、いつのまにか縫い代が1センチ以上膨らんでいる。

笑ってしまうくらい、不器用だ。
手始めに、破けたズボンの裾あげをしようとしただけなのに、ミシンそのものにたどり着くまでに何時間もかかる。

夜は時間の進みが早い。明日も家族の時間が待っている。寝不足は応える。でも今日ここで始めなかったら、きっといつまでも始まらない。

カタン、カタン。ひと針、ひと針。

進むごとに、心が穏やかになっていく。

深夜の、言葉のない対話。
しずかな相槌をうつ、母がそこにいるみたい。
手を動かすことで、服だけじゃない、何かを縫い合わせている。
ほつれや破れ。どうにも繋げられなかった何かを。

立体を、どうなってほしいのかを頭に浮かべながら、糸をほどいて、鋏を入れる。ほつれや破れを治すのさえ、簡単なようでいて、難しい。
でも、慣れてきたら、いつか、自分の服を作ってみたい。
素材の生地を織り上げただけでは終わらず、鋏を入れて、うまく縫い合わせないと、立ち上がらない。
物語とまるで一緒だ。

5月31日 (日)

夜、順に握手を求めた。
「我々、頑張ったよね」

早朝、入れ違いで起きてきた順と喧嘩をしてしまった。お互いに、その場の、硬い言葉や感情につっかかって、もっと奥にある痛みや、相手を思う気持ちまで行き着けない。ひとつの鍋の中で、かき混ぜる余裕がないが故に、鍋底は焦げ付き、表面はぷすぷすと煮立ってしまう。そんな感じだった。

昼間はつい、もう無理だ!と叫んでしまった。買い出しの帰り道、最後のお店でお会計をさせてもらえなかったしおが、叫ぶように泣いて、泣いて、泣き止まなかった。寝不足は自業自得だけれど、気力が尽きそうな体に、泣き声がこたえる。なにかがぷつんと切れて、立ち止まってしまう。ただ、耳を塞いで、家に帰って、横になりたいと思った。結局ギャン泣きのしおを順が米俵のようにかかえて歩き出した。とぼとぼと歩く私たちの横を、一台の車が通り過ぎていく。車のなかから、どこかのお母さんが、私たちを見て懐かしそうに微笑むのが見えた。

明日から保育園が再開する。この愛おしくて、濃密で、ゆえに焦げ始めそうな時間にも一区切りだ。原稿は未完成だし、断捨離なんて手もつけられなかった。しおの成長の100分の1でも、私は前に進めたんだろうか。

「うん、頑張った」握り返された手に、懐かしい温度があった。

寺井 暁子

寺井 暁子

作家。出会った人たちの物語を文章にしています

Reviewed by
中田 幸乃

日の光の中で踊っていた愛おしい人たちが眠る夜、遠くのあちらこちらから、昼間には隠れていた光たちが呼びかけてくる。
寺井さんは、その声に、穏やかに、時に興奮しながら応えてゆく。

寺井さんの書く夜が好きだ。
けれど、迷ったり、喧嘩したり、後悔したりもするけれど、真っ直ぐに人と関わりながら暮らしている日常の描写も好き。

だから今、寺井さんが書いているという原稿がすごく楽しみ。
そこには、どんな表現が現れているんだろう?
こうやって、日々綴られるものを読みながら、新しい作品の完成を待てるということが幸せです。

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