それぞれの自意識

長期滞在者

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 自意識ってすごく厄介なもの。自分ではすごく気になることだったり、こだわっていたりすることが、他人の目から見たら「そんなこと気にしてたの?」っていうのはよくあることだけれど、その自意識が自分の行動を縛っているのだとしたら、それはとても勿体無いことだ。

 4月に転職して、あえてこれまで苦手意識があった言語に関わる仕事に就いたのも、自意識やコンプレックスが確実に自分を狭めていると感じていたから。苦手なことや、不安に思っていること、自信がないことに、いま向き合わないと手遅れになると思って、飛び込んでみた。それが未来の自分をどう変えるかなんて、一切考えないで。
 いまの職場では、日々様々な言語を耳にする。英語が一番多いけれど、ポルトガル語やフランス語、中国語、それらの言語が飛び交っている。もちろん、読み書きもある。そういう場にいると、ついつい自分と他者を比較してしまいがちだ。自分の中にある、「自分は○○ができない」という自意識が、勝手にそうさせて、情けない気持ちになる。でも、それこそ自分自身を狭めてしまう考え方で、改めるべき感じ方。いますぐには無理だけれど、わたしの中の自意識と折り合いをつけないといけない。

 とくに印象に残ったことが最近あった。ポルトガル語や英語で、まったく見ず知らずの人々と面談を行うため、メールを送ってオファーすることになった。わたしは、これまでほとんどポルトガル語や英語で文を書かずに生きてきたから、ものすごい苦手意識と、コンプレックスを持っていたし、きちんと通じるだろうか、失礼じゃないだろうか、変な文章って思われないだろうか、嫌われないだろうか、馬鹿にされないだろうかって、そんなことばかり気にしていた。必要以上に文章に時間をかけて、何度も何度も推敲して、完璧になんてならないーそもそも完璧なんてないーものに、神経をすり減らしていた。そして、必ず一文、謝罪の内容を組み込んだ。「わたしは不得手だから、わかりにくいことや、不自然な文があったら許してください。」って付け足して。正直なところ、それは相手に対する気遣いではなくて、私自身に対する保身のような、気休めのようなもので。

 もらった返信には、わたしの送った文章のおかしいところなんて指摘する人は一人もいなくて、むしろ完璧だったよとお褒めの言葉まで送ってくる人だっていた。フランス出身の同僚も、言語が似ていて理解できたようで、「そんなこと書かなくていいのに、もっと自信を持ったらいいんだよ。」と励ましてくれた。わたしが苦手だ苦手だ、苦手だって、地面に数十キロもの穴が掘れるくらい思っていたところで、「どうってことないよ」「全然問題ないよ」の一言で片付いてしまう。わたしが思い悩んでいることが、他者にとっては大した問題じゃなかったということ。自意識のせいで、思い込んでいたり、頑なになっていただけで、本当はまったく自分の認識と違うことが、あるんもんなんだって、まぁ、当たり前っちゃそうなんだけれど、そんなことが自分には不思議で、驚きを隠せなかった。

 今日、ちょうどこんなこともあった。同僚の女の子が、最近随分と悩んでいるらしく、同じ部署のわたしと、もう一人の男の子に、二人のようにうまく仕事ができたらいいのにと言ってきた。自分の代わりは誰にでもできるって。わたしは、ちっとも仕事がうまくできている認識はないし、逆にこれでいいんかいな?って日々思いながら過ごしている。逆に、同僚の女の子のほうが、頑張り屋さんで、普段一生懸命に色々取り組んでいるように見えたし、それに、自分の代わりという発想すら持っていなかった。このやりとりでわかるのは、いかに人が自分を小さく認識していて、いかに他者を大きく見ているか。これも、自意識に関わることで、自分以外の目を通すとまったく違う地平が広がっていることに気づく。

 言語はそもそも、意思疎通を行うための道具にすぎなくて、それがうまく使えるか、下手なのかというのは、それほど大きな問題ではない。下手だけど、通じるのであればそれでいい。仕事も同じだ。下手でも、やるべきことができているならそれでいい。ただ、下手ならば下手なりに努力していかなくちゃだけれど、それが悪いというわけでは決してない。それに、やっぱり結局のところ人と比べても何もいいことはないんだっていうこと。それぞれの自意識は違う。自意識を避けることはできないけれど、それが全てじゃないと頭に入れておかないと、とても偏った人になってしまう。そんなことを、痛感して、もうすこし肩の力が抜けるんじゃないかって思っている今日この頃。ポルトガル語で文章を書くことが、わりと楽しくなりつつあるのは、飛び込んでみてよかった点なのかな、って口には出して言えないくらい、控えめに思い始めている。