「緑子の部屋」第2回

第20期(2015年4月-5月)

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 部屋には記憶があると思う。もしくはオーラのようなもの。人がある空間に滞在すれば、必ず痕跡が残る。それは、足跡とか髪の毛とか残り香とかいうような分かりやすい独立した一個の〈物〉的なものというより、無意識の習慣の堆積の中に生じる配置や流れのようなこと。住人の生活仕方が積もって染みて空気を生む。
 米が美味しい。と井尾は思った。食べ物が美味しく感じるのはいいこと。嬉しいこと。でももう嬉しくなかった。井尾の流れは止まっていた。
 左胸の底の辺りが固まった感じで皿を洗いながら、食器のこと、米のこと、知らない誰かの気配のことが、考えまでいかないぼんやり具合いで流れていく。ぶ厚くて重い土の質感の皿を、重ねられた一番上から井尾はポッと取って茄子を盛った。冷凍ご飯があってよかった。茄子味噌と米の組み合わせは黄金。ご飯が美味しかった。小暮はいつもものぐさで、炊飯器に残った米のふちが乾いてガビっとしてしまうまで放って気が向いた頃に冷凍するものだから、熱いうちに冷凍した方が美味しいよと井尾が何度言っても、ああそうなんだと言葉ばかりでそのままだった。固まって団子のような米だった。今日の米とは雲泥の差。この重い皿も、今日初めて存在に気付いた。きみは前からここにいたのか。今まで、他の皿の下にいたのかい。よく使う順に自然と皿の重ねられ方というものが生じていて、これまでそれは崩れることがなかったのだ、と初めて井尾は認識した。泡が排水溝に流れていく。
 不思議と、小暮を嫌う方向には行かなかった。それは特に温かさの類のことではなく、諦めていた。それを自分で知っていた。尊重とか肯定とかいう気も少しあった。でも方便かもしれない。自分を嫌いだとも思わなかった。ただ、こんな風にあらゆる小さな気配にことごとく想像を働かせてしまう、今の状態は嫌だった。
 この部屋に、もはや井尾の「自然」はない。無意識は取り戻せない。常に薄い陰が一枚かかったような心で過ごすことは、自分を少しずつ変えてしまうだろう。
 それでも、小暮との関係を否定する気分はなかった。こうだったからの良さを井尾は十分認めていて、大切に扱い、享受してきた。だからもうほんとにだめなんだなと思った。
 ふと、大学の恩師を思い出した。法律とは関係のないゼミだったのに、何故かみんなで日本国憲法を読んだことがあったのだ。GHQ草案をどういう言葉で、どういう条項分けで日本語に書き表すか、という部分で日本の頭のいい人たちが一生懸命工夫したというようなことを先生が言っていた。英語で考えられ、英語で伝えられたアメリカ側の意志を、なんとか少しでも日本の都合にフィットするようにずらし、引き伸ばし、明文化したというような。一体何をどっち向きに置き換えたりひねったりして、その結果どうなったのか、ちゃんと理解していなかったから思い出せないけれど、なにか、その段階で決定的に埋め込まれた歪みのようなことが言われていた。
 いま、いま、いま、と出来事が連なって、後から言葉でととのえる。出来事を串刺して、筋を通す。その筋が人たちの間に置かれて、わたしたちになれる。どこかに筋が通っていなければ、人は離散してしまう。だけどね、意識のベースの部分に埋め込まれた歪みが、長い時間をかけて人を不健康にすることもある、と先生が言った。
 わたしたちは、今すぐの100の健康を手放して、歪みを抱えて生きている。

「え、結局何が一番原因で別れちゃったんですか?」
「え?」

 と返されてすぐ、あ、やべ、と思った。さっきアヤチャンを取りましたって言ったよね。って顔してる。そりゃそうだ。確かにあなたはそう言った。大熊さんの話、わたし聞いた。
 だけど、と井尾は思った。本当にそうだろうか?
 井尾は不如意への理解が深かった。理解が深いというか半ば降伏姿勢で諦めていた。だからままならない状況にあるとき、時々は悟空になって如意棒で悪を一掃・根絶してやりてえと思うこともあったが、その考えはすぐ自分に返ってきて、悪を一掃とか言ってる私は誰? どんなに「おかしいだろ!」と思う状況でも、その状況に自分が加担してないなんてこと言える? というか悪とは? つまり思うのは、ままならなさなんて常態なのだから、ままならないものはままならないなりに、もうちょっと手放さずに踏みこたえることって出来ないの? 耐え難きを耐え忍び難きを忍んでなお不如意の味をもっと存在に突き当たるまで味わうわけにはいかないの? 例えば今こうして同じ部屋にいる大熊さんと私の中にもそれぞれに沢山の時間が同時並行的に流れていて、一方で大熊さんから緑子とアヤチャンの話を聞いているかと思えばもう一方では大学のゼミに出席して憲法に思いを馳せてみたり小暮の部屋で皿を洗ってみたりしている私がいるわけで、それらをいくら一本に束ねるフリしたって嘘じゃないか。それだけが筋の通し方ではないと思う。ていうか筋って一本じゃないといけないんですか!? って昔逆ギレしてる男の人を笹塚で見かけたけど私もまさに今そういう感じ。今なら分かる。だから大熊さんは、緑子とアヤチャンをどっちもちゃんと、もっと本当にちゃんと、尊重することは出来なかったんだろうか? と思っていたら大熊さんが「いやいや、でもさすがに、ねぇ」となんかドアを気にするような素振りでお茶を濁そうとするもんだから、私は自分でも思いがけずパッと体が動いて「あ、大丈夫ですよ、私見とくんで!」とか言って素早くドアをガードしたかと思うと「ホラ、早くしないと戻って来ちゃいますよ!」とか言ってなんだろうこれはさすがに自分でも意味がわからない、と思ったけれど、だけど、私はもう状況を物分かりよく聞き入れて分かった風に「あー。ハイハイ」なんて言いたくはないのだ。

 と思ったところでドアが開いて、緑子兄が現れた。

「すいません、すごいお待たせしちゃって!」
「え、餃子?」

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 という言葉につられて井尾の口元に浮かんだいがみを素通りしつつ、「そうそう、これ焼くのに時間かかっちゃって。よかったら食べてください、緑子の好物だったんで」と佐竹は皿を差し出した。「え、お兄さんが作られたんですか?」「いや、実家で作ってるんですよ。あとは焼くだけで食べられる、みたいなチルドの」「えーすごい、餃子屋さんなんだ」「あ、餃子屋っていうか、食肉関係の加工の工場をやってるんですけど」「へえー」「さ、どうぞどうぞ」「あ、それじゃあまあ」といった塩梅でぐにゃぐにゃと三人、餃子を食べる流れに入る。
 ところでこの「流れ」というやつは、うかうかしているとすぐ発生する。流れに対して自分の取り得る選択肢は二つ、乗るか乗らないかだ、と佐竹はよく考える。しかしこの「乗らない」ということが彼にはとても難しい。それを言い出すタイミングが分からない。彼が気付いたときには流れはもう始まっている。乗せられている。そしてそれこそが流れの特徴でもある。例えばこの餃子を佐竹が持ってきたときに、「ハイ! えーそれではここで、この餃子を食べるか食べないか、どうでしょう?」なんてことになるだろうか? ならない。餃子が来たら食べるのだ。もし食べたくない場合には、もっと早くに手を打っておかなくてはいけない。あらかじめ満腹そうな気配を出しておくとか、時計をチラチラ見てお尻の時間がある感じをアピールしておくとか。それが自分の暮らすこの社会の空気だ。ということを佐竹は、33年生きてきてようやく理解しつつあった。だから取り得る選択肢は二つ、流れに乗り続けるか、そこから飛び降りるかだ。
 しかしその点、緑子は違った。流れに乗らないし、乗れなかった。それと関係あるのかないのか(でもたぶん、あるだろう)、小さい頃からよく事故に遭った。ちょっとした拍子ですぐ転んで怪我をした。大人たちは彼女の不注意を叱ったが、何も変わらなかった。むすっとするだけだった。佐竹は自然と、自分がこの小さな人を守るんだなと思った。そういう「やること」があると、自分もこの場所に少しはいられる感じがした。
 しかしそれにしても本当にどうしてなのか、事故が緑子を襲った。なんでなんだろう? でもいますよね、なんでかその人にばっかり災いが降りかかるタイプの人って。
 ああいうのは本人が呼び込んでる部分もあるんだろう、と佐竹は思っていた。そんなこと言うと、緑子は火みたいに怒るけど。だって例えば、僕が道を歩いてて人にぶつかっても、「あ、スイマセーン」ってこんなもんですよ。さらっとしたもんですよ。行き違えばいいじゃないですか。でも緑子だとさ、ボーン! て、なんかすごい派手に飛ぶわけ。もうまず「なんでだよ!」って思うわけですよ。なんで人が二人いてどっちも避けないんだよ! って。理解不能ですよね。でもたぶん、似てるんじゃないかな、その二人。ぶつかる奴とぶつかられる奴って、大体どっちも「自分がぶつかられた」と思ってるじゃないですか。でもそうじゃないよ、と。ぶつかりを、招いてもいるし、その後の更なる衝突も必ず、お互いがお互いに発生させているものなんだよって、思うんですよね。
 ただまれに、天才的に人とすれ違えない奴っていうのがいて、本人も決してぶつかりたいと思ってるわけじゃないんですよ。むしろ自分の体がどこまでも薄ーく、存在感も薄く薄くなれたらいいって思ってる。ただ、圧倒的に下手なんですよね。で、それって悪循環で、自分はすれ違い下手だって意識が余計足をギクシャクさせて、次の事故を呼ぶ、とまあこういうわけですわ。

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「で、あ…の、なんで今回、僕にご連絡をいただけたんですかね? あ、ていうのは全然、ネガティブな意味とかではないんですけど」
 餃子をいただきまして、また追加でビールも飲みまして、ひとしきり美味しいっすねそうですかぁ?いや本当に、など経由して、そろそろいいかと思って聞いてみた。井尾さんはまだ、ちびちびペースで冷めた餃子をつついている。
「年賀状があったんですよ、お二人宛ての」
 え
「え?」
「まあ残ってたってことは出してないってことなんだけどね」
 そう言ってお兄さんに渡された年賀状が、これです。

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 。                 。
 。                 。
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 。                 。
 。  今年も            。
 。  よろしくお願いします。    。
 。                 。
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 。  2009           。
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 。                 。
 。          佐竹緑子   。
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 もういない人からの手紙、か。と思うとなんだか神妙に、しないといけないような気に何故かなって、そうした。静かになると、満腹さは明らかだった。

「……今年もよろしくおねがいします、のみ。ていう」「もうちょっと何か書けばいいのにと思いますよね」という二人の声を聞きながら、焦点を合わさず文字を見る。

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 酔っているせいで、目の見ている先と後頭部が分離したような感じになる。
「このときって、まだ……?」
「あ、いえ、このときはもう、」別れてた。最後に会ったのがたぶん夏前だったから、別れてから半年以上経ってから緑子はこれを書いてるってことで、でも結局出さなかったそれを、後から、他の人から手渡されてしまって、
「書いたんなら、出せばよかったのにね」
「あ、でも僕、引っ越しちゃってました」
「あ、そうなんだ」
……重い。でもそうだった。言葉の少なさと余白が緑子らしい。

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 緑子の字は、想像と違った。余白部分の隅の方に小さく、下描きして消されたらしい牛と思しき生き物を見つけて、思わず笑ってしまった。
「どうかしました?」「や、緑子って、字、へたですね。絵も下手だし」「え、絵なんてありました?」「ほら、ここ」と指さしたところを覗き込んだお兄さんが「あ、ほんとだ! 気付いてなかった!」とずいぶん大きく反応したので、この人はどんな気持ちでこの葉書を見ていたんだろうと思う。筆圧でできた溝に、黒い粉が残っている。やって来たのが私と大熊さんで、本当はがっかりしてたりするのだろうか。
「なんか勝手なイメージで、美術とか得意な子かと思ってました」と私が言うと大熊さんが、「あ、でも好きは好きだったみたいですよ」と言った。「大学でも美術の授業とか取ってたし。まあ俺は全然よく分かんなかったけど、発表とかあるとなんか熱心に準備してましたよ」
 それで初めて、ああこの人はたしかに緑子と一緒にいたんだ、と思った。

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 でも大熊さんは分かるけど、なんで私? って、正直思っちゃいますね、と井尾さんがぼそっと言った。僕もそう思っていた。なんでこの人なんだろう? でも日記にも、井尾さんの名前があった。
「日記? お兄さん、読んだんですか?」
「あ、でも日記っていったって虫の観察日記ってタイトルで、内容だってなんてことない、日々のことなんですけど」ってなんでこんな、言い訳みたいな言い方、
「え、虫?」
「そうですね」とうなずきながら、なんだろう。初めから思っていたけど、この女の人が僕はあまり得意じゃない。
「あ、俺それ知ってます」「え、日記?」「や、じゃなくて行為というか」「え、行為??」「あ、や、すいません。行為とか言ったけど変なあれじゃなくて」と言って申し訳なさそうにこっちを見る大熊くんは、僕はけっこう好きだけど、え、行為?
「大熊さんってソツなく明るい感じと思ってたけど、たぶん実はけっこうヤバい人ですよね」「いやいやマジでそういうんじゃなくて」と言って大熊くんが、八割方井尾さんに向いて、話し出す。

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 緑子、さん、(あ、いいですよ、呼び捨てで)あ、すいません、じゃあ緑子、が虫をね、飼ってたんですよ。なんか校舎の裏側で。(えー。お兄さん、知ってました?)(や、初耳です)ああ。そう普通、大学1年っていったらはじけたいっていうか遊びたい時期じゃないですか。(ハイハイ)でも緑子はそういうのに全然興味なくて、もう虫に夢中、みたいな。(えー)で、この子変わってんなーと。(え、それがきっかけ?)や、(あーでも確かに緑子って、女子的な文化に馴染めないっていうか、拒絶してるようなとこ、ありましたね)(確かに)あ、へえ、俺が会ったころは普通にちゃんと(?)してましたけど。(そうなんだ)まあまあそれで、その虫ファームみたいなのを校舎の裏につくってて、ちょうど僕はその辺で煙草吸うことが多くて、それでいつの間にか喋るようになって、っていう。(へー)中でも蟻が、緑子の一番のお気に入りだったんですけど、(あり?)そう、ガラスケースっていうかでっかい水槽だから巣の断面が見えるようになってて、蟻がコミュニティーを作ってく様がすげー面白いんですよ。(ハイハイ)(あーあるね)それである日、おっきい羽蟻を見つけたんで、たまには俺も貢献しようと思って、こいつを新しい女王蟻にしようと思って、入れたら、あれってダメなんですね(え?)ダメなんですよ、人間からしたら違いとか分かんないんだけど、どうもその巣を作ってた蟻と俺が後から入れた羽蟻は種類が違ってたみたいで、所在なさげにしばらくウロウロッとしてて、俺の羽蟻。(え、なに?)(お兄さん、スキンシップスキンシップ)突然周りの働き蟻に……「こいつ違うぞ!!!」(きゃー!)(えー! ってちょっと大熊くん、)ってバレた!!! (痛)みたいになって(うっそ)(いやいやちょっと大熊くん、)ギャーッ!!! (え、いたい)てもう一気に襲い掛かられて一斉攻撃されちゃって(ちょ)もうほんと大群で、囲まれて羽とかもむしられてボロボロになっちゃって、(やだーかわいそう)(おわー! って、えー)ああこれは、俺が水槽の中に入れたばっかりにこいつは(ハ)、殺されるハメになってしまったんだ(ぁ)と思ってすごく、ショックでしたね。(あー。ハイハイ)(…………あー(?))や、とか言って。すいません。と言って大熊が笑う。井尾も笑う。それで佐竹も笑顔になる。(え、それさ)ん? (でもそうやってやられてるのを見てるとき、ワクワクした?)え? (いやいやだから、ワクワクした?)えー? と言って大熊が、困り笑いで佐竹を見る。佐竹も眉毛で応えて見せる。(え、大熊さん、そいつがやられるとこ見たいって、少しも思わなかったの?)ん、そおーすね。もうなんか、わりとただただショックって感じで。(うそだぁ!)え、なんか不満ですか? と言いつつまた大熊が佐竹を見るので、佐竹もうなずき賛意を示す。井尾が笑う。(だって絶対ちょっとは思うでしょ。やめてーって思っててもどっかで、ズタズタにされるの見たいって思っちゃうもんだって人間は)や、でもそんときはほんとに一対多でリンチだったから。大熊はもう佐竹を見ない。だって同じ蟻じゃんって思うのに羽むしられて、足とかもどんどんもがれてバラバラになってっちゃうの見てたらエグくて(ぇ)、そんときはほんとにそんなこと、思えなかったっす。(欺瞞だね)えー(笑)。