「緑子の部屋」第4回

第20期(2015年4月-5月)

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3-1
 2003年6月8日
 虫のことを周りの人が、ファーマーと呼んでいる。面と向かっては呼ばないで、それでいてそれと知れるようにやる遊びだ。
 今日、一人の教師が虫に「あなたは大丈夫か?」と訊いたので、「大丈夫とはどういうことか?」と訊くと、答えなかった。あの教師と話すといつも、一体何を言いたくて話しているのか分からなくて、非常に混乱してしまう。相槌と笑顔に、自分の言葉と存在が塗り込められるような気持ちになる。
 何も言わないので、暇になって観察する。この人は、虫を前にして途方に暮れているのだナ、と思う。
「話しましょう」と言ってやって来るので、話し出す。でも毎回話してみると、話をしたいと思っていないとすぐ分かる。どうもこの教師は「よかれ」と思って、虫と話そうと言うらしい。気持ちの悪い女だ。畸形だ。でもこの畸形も、作られたものだ。
 そういうことを思っていたら、教師はため息をついて、「あなたは可哀想だ。あなたが心配だ」と言った。虫も教師に同じ思いを抱いていたので、世の中には不思議なことがあるものだ。

3-2
「オークマちゃんってさ、ファーマーと仲いいよね」なんてサタケがいきなり言い出すから、私はほおばりかけていたツナトマトピザを慌てて噛みちぎって飲み込んで、否定する。
「別に、そんなことないよ?」「えー仲いいよぉ、絶対」
 うるさいサタケ、黙っとけよと思いつつ、私は笑顔で「仲よくないって~。え、てか、ファーマーって何? ウケるね」とごまかしたけど、ダメだった。
「普通にみんな言ってんじゃん。つか、オークマも言ってるべ」
 ほとんど氷だけになったオレンジジュースをずずずずっと吸いながら、イオちゃんが言った。ファーマーの話題になると、イオちゃんはなぜか不機嫌になる。話してても目が合わない。今も、テーブルに直接貼られた季節限定メニューの辺を見てる。怒ってる? と聞くと絶対、別にって言うけど、ものすごい怒ってる。怒ってるっていうか、不機嫌。
「けっこう一緒にいるじゃんね? ホラ、校舎裏」としつこくサタケが振ってくる。
「や、ないない。タバコ吸ってるだけだって」「あ~ダメだよー?」「いいじゃん別に」
 サタケのことは好きだけど、こういうとき、ちょっとイラつく。なんで分かんないんだろ? それとも分かってやってんのか? や、サタケに限ってそれはない。と思う。
 イオちゃんがドリンクバーに3杯目のオレンジジュースを取りに立って、ちょっとほっとしてしまう。
「え、ファーマーっていつもあそこで何してんの?」「だーから知らないって。サタケの方が、ファーマー気になってんじゃないの?」「や、私のはそういうんじゃなくて」「そういうんじゃなくて何?」「えーだって、昼休みになると絶対裏行くんだよ?」「うん。あ、でも、ってでもじゃないけど、ファーマーって実は中国の人なんだって!」「え、そうなの?」「うん。さっきアヤが言ってた。え、知ってた?」「知らなーい!」「だよねー」
 泣き声がして振り向くと、子供連れのお母さん二人組のテーブルで、男の子が真っ赤な顔で声の限りに泣いていた。惚れ惚れするくらい全力だ。ああいう時を、私たちはいつ過ぎたんだろう。何も恐れず、世界とただ素直にやり取りしている。
 わたし、ちょっとおしっこ、と言ってサタケが立った。

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 右斜め前の広い席に、おじさんが一人で座っている。おじさんはさっきから店員の若い男の人に、ドリンクバーの飲み物を持ってきてもらっていて、野菜ジュース、あ、氷抜きで、あとコーラ、も氷抜きで、それからウーロン茶、……とあとコーヒー、ミルクは2コで、砂糖ひとつ、ってそんなに欲しいなら自分で行けばいいのに。しかもいちいち注文細けー。と思ったところで、その人が松葉杖を立て掛けていることに気が付いた。
 おじさんは、『わたしたちが本当に知りたかった日本の歴史』という新書を読んでいる。私が見始めてからも2回おかわりをして、もう11杯飲んでいる。

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「オークマ!」「ん?」「じゃーん!」「え。何これ、キモ! つーか、汚な!!」
 どぶみたいな色の液体を差し出して、イオちゃん、「オークマに、イオちゃん特製スペシャルドリンクだヨ」「えー?」「ブレンドブレンド」「え、何の? てかなんか、色めっちゃ汚いんですけど!」「だいじょぶだいじょぶ、味はいけるから」「え、飲んだ?」「飲んでない」「ちょっとー」と言いながら、飲む・むせる。「マズ!」「え、うそオークマ涙目?」「いや泣いてない。泣いてないけど、これヤバい。マジで死ぬる」「死ぬるとか言って、死ぬれし」「イオちゃんも飲んでみ」「いらねー」「なんでよ」みたいな工程で、私たちは仲直りをします。女子高って、体張ってなんぼみたいな、自分をサげて場に貢献して初めて認められるみたいなところがあって、でも私はそういうのは大丈夫。ルールが分かってれば、むしろ楽。
「あれ、サタケは?」「なんかトイレだって」「あ、そうなんだ」「ねえこれ、何ブレンドした?」「ん、抹茶オレと野菜ジュースとツナ」「ツナ!?」

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 カーディガンの袖をまくって、やっぱり戻す。「え、オークマさぁ」と切り出しながら、自分の声がちゃんと、普通な感じかなと思う。「緑子と、仲いいじゃん?」
「え、そんなことないよ?」「うんそれさっきも言ってたけど、仲いいじゃん」「え」「なんで知らないフリすんの?」
 出来るだけ普通の軽いノリで言おうと思ったけど、上手くいかなかった。
「え……、なんでだろ」「あとさ、さっき緑子が中国人とか言ってたけど、あれって何?」「え?」
 オークマの首の、くぼんだところが赤くなっている。そこに指がやって来る。鎖骨と鎖骨の間の薄い肉がいじられる。オークマが困ってるときの癖だ。
「ほんとのこと?」「あ、ううん、分かんない。聞いただけだから」「あ、分かんないんだ」「うん…」「え、でもだとしたらさ、どういう意味で言ってたの?」「意味? って、え? ごめん、どういうことかよく分かんない」「うんだから、緑子って中国人なんだってーとか言ってたじゃん」「あ、うん言ってた」「あれオークマ、楽しそうだったね」「え、あれ? そうだった?」「うん、あれはさ、なんで? 緑子が中国人だとなんか楽しいの?」「え、ごめん、分かんない」「分かんなくないよ、オークマの言葉じゃん」「……え、ごめん」
 オークマは、これが一体どういうコミュニケーションなのか知りたがってる。分かった上じゃないと、自分がどう出ていいか分からないから困ってる。それは正しい。でも私には今、オークマと同じところに立って話せる言葉がなくて、グラスから染み出た水滴をつないでみるけど手慰み。ストローの袋が、水を吸ってぐじゃぐじゃにふやけている。

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「……もうあんまり言わないようにするね」
と言ってみて、あんまりって何だよとすぐ思う。イオちゃんはテーブルの上に視線を置いたまま、黙ってしまった。このだんまりが、一番苦手だ。どうしていいか分からないから。怒ってるなら、何に怒ってるのか分かれば謝れるし、望んでることがあるなら言ってくれたら応えようと思うけど、こうやってやり取りを拒否して不満を訴えるみたいなやり方は、ずるいと思う。甘えてる。だけど私は、譲ってしまう。
「イオちゃん、ごめん。なんか嫌な気分にさせたんなら謝るから」
 イオちゃんは、黙っている。なんでだよと思いながら、それ以上に目の前のことにすがってしまう。
「私、イオちゃんに嫌われたら悲しいから、イオちゃんが何に怒ってるのかちゃんと分かって、それでちゃんと謝りたい」
「ふーん」
「緑子と、ほんとにそんなに仲いいわけじゃないよ」
「あ、そうなんだ」
「……うん」
 言葉にして、苦くなった。なんでこんなことを、私は、イオちゃんに、言ってるんだろう。斜め前のテーブルに視線を逃がしたら、おじさんはもういなかった。
「緑子って中国人だよ」
 え?
 前を向いたら、イオちゃんと目が合った。
「だからあんた、別に間違ったこと言ってないよ」
 イオちゃんは私を見ている。でも何を思っているのか分からない。
「あとサタケも中国人だよ」
「え!!!」
「だから私よりサタケに謝っといた方がいいよ」
 目が離れる。それから何となく抹茶野菜ツナオレを一口吸って、マズ、と小さく顔を歪める。
「……知らなかった。後で、メールする」
「うん」
 サタケが両手にカップとグラスを持って戻ってくるのが見えた。ごめん、ちょっと先帰るね、と言って席を立ったらイオちゃんが、オークマ、なんかごめんね、と言った。
「ううん。イオちゃんそれじゃ、また明日」

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 って言って、オークマとは別れたんだけどさぁ、オークマ、メールでなんて? と言うとサタケが、黙って携帯の画面を差し出した。

 知らなかったので、大変申し訳ありませんでした。
 明日からもまた、よろしくお願いいたします。

「何これ! オークマいい子だね!」「ねー」
 サタケは、中1のときに買ってもらったガラケーを使っている。別に大事にしているわけでもなく、ただ使い続けている。出っ張った角から色が剥げて、中の素材が見える。
「言ってなかったけど、私も実は三世じゃん?」
「え、イオちゃんそうなの?」と驚いて上がるサタケの声を平らに均そうとする。「うん、生まれも育ちもこっちだから、日本語しか話せないんだけどね」「ああ」「て話を、ほんとはオークマにしたかったんだけど、できなかったなー、ていう」「ふーん、そっかあ」
 ぺたんとした紙の砂漠みたいな空気だ。サタケは乾いてて、楽。これがオークマだったら、きっと無駄にしんみりした感じになっている。
「私、自分のこと日本人だと思ってるからさ、けっこう嫌なのね、牛丼屋入って店員全員中国人だったり、電車の中で人の迷惑おかまいなしに大声で喋ってたりすると、あんまこの国入ってくんなって思ったりしちゃうところがあって」「あー分カルー私もそうだよー」「え、なんか適当じゃね?」「そんなことないよー。フクザツフクザツー」「複雑じゃなさそー」

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「でも緑子がいじめられんのは、正直わかるなと思ってて」
とイオが言って、サタケは、キタ、と思う。「まあ不器用だから、どうしても反感買っちゃうよねー」と返すとイオは、「や、不器用とかじゃなくて緑子にも問題があったと私は思うけど」と言った。それでサタケは少し、身構える。自分をできるだけ、セラミックみたいにしようとする。どんな水滴も、身に付かずに流れて欲しい。
「緑子ってさー、なんか女子的な文化を拒絶してるっていうか、もっと言ったら馬鹿にしてるみたいなとこあるじゃん」「えーそう? 馬鹿にはしてないと思うけど」「や、してるんだって!」「例えば?」「えー? そうだなぁ例えば、」
 と言ってイオちゃんが挙げたのは、こんな話。

 なんていうのかなー。例えば、うちらが放課後に頑張ってスカート上げて短くしてるとすんじゃん。(うん)そうすると「私はそういうの興味ない」みたいにしてくるとか。(え、ダメなのそれ? 興味ないんじゃない?)や、興味のあるなしじゃないんだって。それで言ったら私だって興味ないもん。(えー? じゃあイオちゃんもしなくていいんじゃん?)いや、そうじゃなくて。そういうのはでも普通、合わせとくじゃん?

 同意を求めてこちらに手を伸ばす語尾や、言葉の網に染み込んだ情のようなものを、見ている。そのテクスチャーに織り込まれそうになったときは、カタカナで喋る。心を抜いて、音だけで交通させる。
 ニッポンのジョシコーセーよ、とサタケは思う。タイヘンだなあキミたちは。

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 うん。それに私は、いじめてるグループともけっこう仲よかったからさ。や、仲良くしなくていいんじゃん? ってサタケは言うけど、そういうわけにもいかないんだって。仲良ければ、みんないい奴だし。でも、「チャイナ」ってワードが悪口のレパートリーに入ってから、安心して笑えなくなって。だってね、私としては、緑子がいじめられるのは緑子にも原因があったと思ってんの。だけど、中国人ってことがそもそも嫌う理由みたいになってくると、じゃん? バレたらどうしよーって思っちゃって、こんなんなるなら最初に言っときゃよかったよー! って、思った。
 チャイナ。って誰かが言うたびにすごいドキッとしてさ、そのたびに、緑子のこと見てた。ちょうど、私の右斜め前の席だったからさ。私ほんとは、あんたのことよく分かってんだよーって、いつ言おう、今日は言おうか? って、思ったりしてたんだよね。
 って話したかったけど、サタケにも、言えなかったね。