色褪せない思い出と、色褪せたもの

第40期(2018年8月-9月)

「使えば使うほど味が出る〜○○」なんて、意味がわからなかった。

だって新品のバッグのほうがかわいいし、
「味」ってどのへんのことを言うんだろう、なんて思っていた学生の頃。

そんなわたしがはじめて「使えば使うほど〜」なものを買ったのは、新卒のときだった。
無印の、やさしいキャメルブラウンの色をした革の名刺入れだ。

わたしは当時、本社とは別のオフィスで働いていた。
それもあり、入社してからお客さまにお会いする機会は一度もない。
だけどある日、お取引のあるお客さまが、急に自分たちのオフィスに来ることになった。

「いつか一人前の社会人になってたくさん名刺交換するんだ」と、名刺は引き出しにしまってあった。
だけど、肝心の名刺入れを持っていなかった。
すぐには機会が来なさそうだと思っていて、油断していたのだ。

上司に相談し、名刺入れを持っていないとおかしいので、お客さまの来訪に間に合うように買いに行くことになった。
青山通りを、息を切らせて走った。
こんな小さな買い物をしにオシャレな青山通りを走るなんて、なんだか可笑しかった。

記憶はクロスする。

網膜に焼き付いて忘れられない青山通りの映像がある。

新卒で働いた会社はトップとの距離が近く、社長が気さくに社員と話をしていた。
ひとりひとり社員と話す時間を設けていたらしい社長が、ついにわたしに声をかけてくれた。
麻布十番のお店で、たくさんおいしい料理をいただき、いろいろなことを話す。
前の年に大好きなおばあちゃんを亡くしたこと。
おばあちゃんが空から見てるからがんばらなきゃいけないと思っていることを話していたら、泣き出してしまった。

社長はゆっくりとした口調で言った。
「おばあちゃんは、あなたが無理をしてまでがんばることなんて望んでいないと思うよ。だからゆっくりいけばいいんだよ」
しばらく、ハンカチをぐしゃぐしゃにして泣いた。

帰りに呼んでくれたタクシーに乗り込むと、社長から交通費をいただいた。
お礼を言うと、ドアが閉まった。タクシーの運転手に行き先を告げる。
タクシーは静かに走り出して、わたしはひとりで、窓の外を見ていた。

オシャレな青山通りが、深夜の濃紺の闇にキラキラとまばゆく流れていく。
なぜかまた自分の目から涙がこぼれていた。

この日の、この美しい景色が流れていくさまを、わたしは一生忘れないだろうと、なぜか確信を抱いた。

あの日名刺入れを買いに走った日も、
タクシーの中から流れる美しい景色を見た日も、
一生懸命働いて終電を逃すまいと走った日々も、いつも青山通りだった。

今、わたしの手元には「使って味が出てきている」あのときの名刺入れがある。
最初の頃は手が震えるほど緊張した名刺交換もさすがにすっかり慣れた。
様々な会社の自分の名刺を持って来たけれど、
今はわたしが肩書きにつけたかった職業を名乗り、自分で名刺を作って名刺入れにおさめている。
名刺入れは日に焼けて、折りたたんだ内側と色の差が出ていた。

働くことができなくて、この名刺入れをしまいこんでいたときもあった。
そのあいだも静かに、やわらかな革は変化していたんだろう。

小さな、優しい触り心地の名刺入れ。ふとしたときに、過ごしてきた時間の流れを感じさせられる。
この子を手に入れたあとは、長い間「生きること」がつらかった。
表参道から青山通りを歩いて通っていた会社もやめてしまった。
実家の部屋に引きこもって何の未来も見えなくなってただ焦って、名刺入れのことも、青山通りを走るタクシーからの眺めも思い出しすらしなかった。
そんな頃を経て、今はずっと楽しく生きられるようになった。
その間、あなたは部屋のどこかで出番を待っていてくれたんだね。

今、変化したあなたと、もう一度、出会えてよかったと思う。
日焼けしたり、シミや傷がついたとあなたと。
わたしもたくさん傷を重ねたよ。おなじだね。

alive

(BGM:時代/夏川りみcover)