よれよれ観たもん放浪記(8)リヒター モネみたいにいられない時代の絵画

第40期(2018年8月-9月)

横浜美術館で「モネ、それからの100年」展を見た。
モネさんのこと老若男女大大大好きなの、すごくよくわかる。
前に赤瀬川原平が「描きたい気持ち」をふさふさした犬コロにたとえた話をしましたが、モネさんはまさにこの犬コロを心ゆくまで可愛がって、毎日その子の成長の記録をうれしそうに絵画に刻んでいる感じ。
歳をとるにつれだんだん目が見えなくなって怖くなって、でも犬コロは相変わらず度を超えたカワイさで仕方がないから、死ぬまでせっせと絵筆を動かし続けた。
それから100年、絵を描く人たちはみんなモネさんがうらやましくてうらやましくてたまらなかったんでしょうね。
彼が世界を愛するために工夫した、とりわけ色彩と筆触の豊かさについて、たくさんの作家が真似したり切ったり貼ったりしている。

会場の中盤に、リヒターの絵があった。1997年のアブストラクト・ペインティング。
キャンバスではなくアルディボンド板(おそらく表面はアルミ)の上に、なんともいえない複雑な色がずるずると伸ばされ、重ねられている。

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ゲルハルト・リヒター《アブストラクト・ペインティング(CR845-8)》
1997年 油彩、アルディボンド板 金沢21世紀美術館
撮影:木奥惠三 ©Gerhard Richter 2018(0005)

「アブストラクト・ペインティングシリーズは重ねられた絵の具が乾く前に大きめのヘラでこするなどして表現されてますよ」というくらいは知っていたけれど、これまで画集や論集の挿絵でしか見たことがなかった。

それが実際見てみると、思いの外画面に奥行きのようなものがあることに驚愕。
奥行きというかなんというかな。色と色とグラデーションになって置かれているわけではなく、一筆前に描かれた色が一切の意図や感情の介在なしに、容赦なく繰り返し否定されている様子が記録されている絵、というか。
過去にあったものはあっという間に轢き殺されてしまってもう二度と手に入ることはなく、ああ失ってしまった、もう少し待っていてほしかったと思う、でも次の瞬間にはその悲しみさえもすぐにまた轢かれてしまって、何一つ像を結べない。無残な光の死体みたいなものが、作品の上に積み重なっている。
目を覆いたくなるような、残酷な光景。

一方で見方を変えれば、この絵のなかでは絶望すらも一つの決着として実を結ぶことができない、とも言える。とりかえしのつかなかったことになんとか別のかたちで光を当てられないか、あるいは異なる可能性がありえた(る)のではないかというなかばお祈りみたいな途方もない試みが、繰り返し繰り返し続けられている。

リヒターはあるインタビューでこんなことを話していた。

つまり絵画を通じて僕がしようとしているのは、ほかでもないもっとも異質なもの、もっとも矛盾に満ちたものどうしを、できるかぎり自由で活発に生きられるように、結びつけようとしているわけだ。天国ではないんだ。
(ベンジャミン・ブクローによるインタビュー、1986年)

そこにあるのは、決してぴかぴか輝くような希望じゃない。でも、こういう営みだけに宿るかすかな“兆し”みたいなものは確かに今目の前でまたたいていて、それはひとつの救い、のように見えた。

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うーんやっぱり、リヒターのことは書くに余ってしまうな。
とにかく時と場が許す方は、お散歩がてら横浜まで足を運んでもらえたらこの上ない。
近代絵画を始めちゃった人と、近代絵画のままでは立ち行かなくなってなお描き続けてる人の絵が拮抗する機会って、きっとなかなかないと思うから。
展覧会は9月24日まで。