写真を撮っても撮られても

第40期(2018年8月-9月)

ぐしゃぐしゃの頭で着替えだけしてパソコンを開く。
ベッドサイドにスープと飲み物だけ用意して、そのまま書くことにした。
眼精疲労であいかわらず目はよく見えない。

小学生の頃だったか、たしか目を閉じて絵を描くことをした気がする。
文章はわたしの我流のタイピングでは無茶苦茶になりそうだ。
写真ならどうだろう、と思ったら、すでにやっていたと気づいた。
わざと被写体を見ずに撮ることは、写真の手法のひとつであるらしい。
その手法に名前はあるのだろうかと気になった。

今年に入って買った、富士フイルムの小さなデジタルカメラ。
わたしの小さな手にもおさまるサイズなので、あちこち持ち歩いて道端の小さな花なんかを撮る。
だけど、どうしても人だけが撮れない。
目をまっすぐに見つめることはできるのに、カメラの目では相手を見れなくなる。
だから、道端で手をつないで歩く親子を、そっと撮ったりする。ファインダーを覗かずに。
失敗することばっかりかと思いきや、意外とうまく撮れるのだ。
もしかしたら、相手を見つめすぎないほうがその姿は形に残るのかもしれない。

一方でわたしは写真に撮られるのが好きだ。
もともとはものすごく嫌いだったけれど、何年も毎月遊んでいた友だちがわたしを被写体に。めちゃくちゃな量の写真を撮っていたので、慣れてしまったのかもしれない。
そこにはいつものわたしの表情が、自分の想像する形と違って写っていた。

写真家の人の練習台になったこともあった。
毎回テーマを決めて、ライトなどで普段と全然違う姿になるのはが面白かった。
それもまた、普段とはやっぱり少し違った。

撮っても。撮られても。
多分「写真」ができるというシンプルな結論にたどり着く。
生の目で、耳で、見て聴いたときの「その人」はどこにいるんだろう。

見つめすぎても見えなくなる、しっかり写してもらってもなんだか違う。
永遠に自分の幻影を追っているようで果てしない思いになる。

こんなに手軽になった写真は、いつまでたっても「あの人」を写さない。
20180815-01

(BGM:「Lemon」米津玄師)