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2F/当番ノート

よれよれ観たもん放浪記(3)うなぎにかまけて感情に手を噛まれる

当番ノート 第40期

つい先週、ずいぶん久しぶりに、他人に対して怒りをぶちまけてしまった。
「相手のために叱る」なんてかっこいい話ではなく 、ただただ、こらえきれなくなって、暴発。
燃え盛る火事場に駆けつけて、太めのホース引っ張っていざ消火、と思いきや火炎放射器ボッファーーー!!えええーーーー!!!消すんちゃうんかーーーーーーい!!!という感じで、やってしまった。

怒りって、その内側に溜まりに溜まったいろんな感情的なものが膿みたいになってぶひゅっと表出してしまってるにすぎなくって、だからそもそも、自分であれ誰かであれ、膿の奥にくすぶって手に負えなくなってるものが何なのか、意図だの理由だの背景だのを丁寧にひもといていかなければ、痛みも炎症もおさまるはず、ない。
そんなその辺の新書にだって書いてありそうなこと頭ではなんとなくわかっているものの、怒りというやつはどうしてあんなに初速が速いんだろうか。たった一瞬立ち止まって呼吸することすらおぼつかずに、次の瞬間にはもう首にぎゃんと力が入ってしまって、全速力で“反応”してしまう。怒りに我を忘れるとはこのことか。わたしゃオームか。オッコトヌシか。
「観るっていいもんですわよオホホ」みたいな文章を書こうとしているわりに、自覚するより早く反射的に動いてしまう身体のことは、呆れるくらい、見えてないもんである。
苦々しき反省を奥歯で噛みしめながら、ひとまず映画を観ましょう。今村昌平の「うなぎ」でも。


(ここだけの話、本編も、インターネットで探せば無料で見られます…ごにょごにょ)

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1997年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を受賞した本作。
観たことある方も多いと思うけれど、まずはちょっとだけあらすじを。

製粉会社に勤めるパッとしない中年サラリーマン山下拓郎(役所広司)はあるとき、妻の浮気を告発する匿名の手紙を受け取る。ふつと湧いた疑念はふくらみ、夜通し釣りに出かけると妻に言いながらこっそり帰宅。おそるおそる眺めた自宅の床の間には、知らない男と貪るように情事にふける妻の姿があった。
彼はとっさに包丁をつかみ取り、妻をめった刺しにして殺してしまう。
それから8年間の服役を経て、仮出所。
保護司の和尚さんの協力を得ながら、小さな理髪店をはじめる。近所の人も珍しがって様子をうかがうけれど、山下は刑務所にいたころから飼っていた1匹の「うなぎ」にしか心を開かない。
ところがある日、1人のワケアリな女と出会うことで、少しずつ歯車が動き出すーーというもの。

“(うなぎは)話を聞いてくれるんです。それに、余計なことを、喋りませんから”

そう言う山下は繰り返しうなぎを眺め、話しかけ、水槽の中に自分の幻想を重ねる。
一方で、自分を気にかけてくれる保護司や近所の住民、ヒロインの桂子とはできるだけ距離を置こうとする。

そんな山下の前にあるとき、同時期に刑務所に服役していた柄本明演じる高崎が現れる。
同じ妻(と母)殺しの罪で服役していた高崎は、はじめから自分の弱さや嫉妬、欲望をむき出しにしてはばからない。同じ罪を犯したにもかかわらず、服役中にちゃっかり資格をとって店を持ち、あまつさえ女とのうのうと暮らしている山下に対する妬みや僻み。そして女を犯してやりたいという欲望。
高崎は、山下が目を背け続けてきた人間のいやらしい感情を容赦なくひっ掴み、彼の目の前にどちゃりと叩きつける。うなぎとの閉じられた関係にこもって自分自身(の認めたくない部分)や他人と向き合うことを避けてきた山下にとって、高崎は今まで見ようとしてこなかった自分自身の影のような存在だった。

高崎が消えた後、物語は佳境を迎える。一度いなくなった桂子が、愛人から自分の母親の金を奪い返して帰ってきたのだ。そのことをめぐって目の前で起こるめんどうな出来事に、山下はなかば自分から積極的に巻きこまれるようにして関わっていく。それは高崎と争う前にはみられなかった、他人との闘い方だった。
そのさなかに、うなぎの水槽は叩き壊され、桂子のお腹に宿る愛人の子を「俺の子だ」と言い張る。

トラブルがひとまず収束した後、山下は近所の友人たちによる祝宴を抜け出し、うなぎを川へ放しにいく。
花火の光がゆらゆらと反射する水面から、突然ざばりと高崎の幻影が現れる。

“手紙なんか最初からなかった お前の嫉妬が生んだ妄想なんだ”

裂けそうなほど口を開いて下品に笑う顔に、人間が持たずに生きていられない「褒められたもんじゃない感情」みたいなものがすみずみまで刻まれている。
こんなとてつもない表情は、今まで生きてきた中でこの映画でしか見たことがない。にもかかわらず、よく知っているような気もする。誰の中にだって高崎はいつでも沈んでいて、ときどきぬっと現れてはこんな風に笑っているのではないか。
先週ぶちまけたときの電話越しの自分の顔を、想像する。

うなぎのような、もの言わぬ第三者とたわむれることにかまけて感情とやらをないがしろにしていると、思わぬしっぺ返しをくらう。一方で、そういう存在との対話を通じて自分自身の知られざる部分や別の誰かと出会い直すということもまた、ありえない話ではないような気もするわけで。そのあたりの線引きはむずかしい。
ひょっとすると、いびつだが憎みきれない高崎の顔と、つるつるぺたりのうなぎは、もとをたどれば同じなのかもしれない。

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ちなみに本作、保護司の坊さんとその奥さん、船大工、近所のおっさんなど実に愛すべきキャラクターたちが登場し、ヒロイン・桂子の母親役である市原悦子の狂演ぶりも見ものである。
なにより「UFOを待ち望む青年」が映画のもうひとつの光として描かれていて、それがとても素敵なのだけれど、この話はまあ、観てのお楽しみということで。

kie_oku

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美術や映画から観てかんがえること

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