裸のまま、星を探して歩こうと思った

第44期

「大切とは」についてそろそろ真剣に考えないと、このさき生きていかれないかもしれない。何かを大切にすることとは、わたしにとって生きることとイコールだとわかったから。

大切だと感じられるものを守ること。「守る」というのは、「庇護する」という意味だけでなく、「遵守する」という意味も含めて。目に見えるもの、見えないもの、全部。生きていく上で必要な、もっというと、死なないための矜持とエナジーは、大切なものを大切にすることから生まれる。そういうやり方で充足していくことが自分にとっての「生きる」ということなのだと気づいたのはつい最近、ここ1年か2年のことだった。

社会人になって、大切にしたいものがわからないまま生きていた時間は、ぬるい砂漠に飲まれるように苦しかった。この景色がいつまで続くのかわからないことも怖かった。足首が砂に埋まる前に一歩を踏み出さなきゃなのに、向かうべき北斗七星が天に見えない。それは、おそるべき暗い空間だった。規範を正しく守ること。それがかつてのわたしにとって導きの星であった。規範はいつも地上を照らしてくれていたが、それはわたしの星ではなく、誰かの星でであった。そのことに気がついたのは、「結局自分はどうありたいのか」という問いから逃げるのをやめたとき。わたしは、皆目見当がつかないこの問いが大嫌いだった。

けれども、答えが見つからない不安を恐れて問いから逃げる苦しみよりも、問いに対して問い返し続けることをやめないことによる苦しみのほうが、生きていく上でより本質的ではないか。問い返しの眼差しを向けた途端、彼は即座に問いかけてきた。「お前の星はどこにあるのか」と。

「自分の星は自分で見つけなければならない」ということを思い知ったとき、裸体のまま銀河に放り出されたような心細さを感じた。自分の人生の責任を取るということは、星を見つけて生きることそのものだった。誰かの規範によりかかり続けると、人生が自分のものではなくなってしまう。そうならないためには、自分の大切なものを自分で見つけなくてはならない。自分の人生ではない人生を生きてしまうことの何が恐ろしいって、幸せを見失っても、見失ったということから目を背けて生きていけてしまうことだ。きっとその人生は、知らないうちに多くのものを失っている。多くのものを失ったことにすら気づけないのは、ある意味で幸せであるような気もする。しかし知ってしまった以上、もう知らなかったことにはできない。そう覚悟した瞬間から、裸のまま、星を探して歩こうと思った。

「大切とは」について真剣に考え始めてみると、びっくりするほどわからなかった。人生の断片的な場面を思い出して、そのときどきの行動規範や思想のようなものをさかのぼってみても、「じゃあそのときの自分の実際の行動や発言は、ほんとうに規範や思想に沿っていたのか?」と考えると、全然そんなことはなかった。すごく単純化すると、「思いやりは大切だ」と口では言いながら、人のことを平気で傷つけるし、優先席も譲れてなかったじゃん、というような。

どうしてそんなことが起こっていたかというと、「これを大切にしなければならない」ということを、道徳的な、あるいは”一般的な”情報としてたくさん知っているだけで、何かを大切にした気になっていたからだった。思い込んでいるだけで、意味などは重要じゃなかったから、行動として実践こともできていなかった。だって、どう行動をすることが「大切にする」を体現していることになるかなんて、考えることすら思いつかなかったから。自分にとって何が大切であるかを考えないままに、ただ、道徳を情報として知っているだけの人間。衝撃的な気づきだった。自分は一体何を見て考えてきたのか、まるで自信がなくなった。

実際に考えながら生活をしてみてわかったが、大切なものは、たくさん手に持つことができない。あれもこれもと欲張ると、ぜったいにどこかで無理や矛盾が生じて苦しくなる。両手に持てるだけにしなくちゃならない。そのバランスを失うと全てがこぼれ落ちて、ほんとうに大切にしたいものをすぐに見失ってしまう。だから、慎重かつ正直に大切にするものを選ぼうと決めた。こう決めたとき初めて、「何を大切にするか」という問いが手触りを持って目の前に浮かび上がってきた。

そして何かを大切にし続けるとき、その積み重ねが調和へ向かっているかも気にしておかねばならない。長い目で見たときに、手元の積み重ねをこのまま続けることで、望まない方向へと転がっていかないかどうか。「これを大切にすることは短期的には自分にとって良いことがあるけれど、長期的に考えるとどうなの?」とか、「先を良くすることばかり考えて今の手元が疎かになってない?」とか。その2つも、やっぱりバランス。長い目と、短い目。

問いのかたちで「大切とは」を追求するならば、日々の生活のすべてを、その目で見つめ続ける必要がある。何かを選ばなきゃならないとき、始めるとき、やめるとき。どんな予定を入れるか。誰と会うか。何をするか。あるいは、本を読んだり人と話したり、多くの人々の意見をSNSなんかで眺めているときも。「これって本当に大切?」という視点で生活を見つめ続ける。頭ではなく、身体と心で「それ」を大切にできているのか。そして大切にするやり方が、誰かを傷つけたり不幸にしたりしないか。「どう大切にするのか」は、品位と倫理が常に問われる。

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アパートメントでエッセイの連載の話をいただいたとき、多くの人が読んでくれるものだから、なるべく多くの人のためのものを共有したい、と真っ先に思った。この「大切とは」という問いは、わたし個人のものでありながら、どの人も抱える問いなのではないか、という思いから、連載テーマをこれに決めた。

しかし、何かを読み手に共有するにあたって、それは果たして「わたし」という人間が、「わたし」の言葉として書く必要があるのだろうか。書き手としてまだまだ未熟なもので、「わたし」が書こうとすると、その文章は「わたし」のなかに閉じてしまいやすい。だったら、個人的な考えや思いを書き手の中から綴るよりも、どこかにいる誰か、それも、多くの人にとって自分の身近にいる人を思い浮かべられるような、そんな人との対話のかたちを共有したいと考え、それで、これまでの連載をそういうかたちで進めさせてもらった。自分ひとりで考えたことを言葉にするよりも、誰かとの対話という形式を通して引き出された言葉に触れたほうが、きっと多くをもたらしてくれる。対話の言葉を掬うこともまた、「大切とは」という問いの追究そのものだった。これまで登場した彼らの中の誰かが、あなたの中の誰かであったら、うれしい。そして誰かの言葉をきっかけに、あなたが大切なもののことについて考える時間を手に入れられたなら、それはほんとうに、すごくうれしい。

生きていることとは、何かを大切にすること、だと思う。大切にすることは、愛を与えているようでいて、その実、愛を多大に与えられる行為だ。愛を与えながら同時に受け取るとき、あなたはあなたを満たすことになる。あなたはあなたの生を生きることになる。どうか、幸いの多き人生を。