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2F/当番ノート

2, アンナ

当番ノート 第46期

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 2回目の投稿です。「トルコで出会った女性たち」シリーズ第2弾です。トルコで出会った印象的な女性たちとそれにまつわる私の記憶を書いています。前回の投稿「ハティジェ」の冒頭にてこのシリーズの説明を詳しく書いておりますので、一体何について書かれているのか混乱された方はどうぞそちらをご確認ください。
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 「ハティジェ」回の概要:大学卒業後バックパッカーをしていた私はひょんなことからトルコはパムッカレのとあるホテルでボランティアワークをすることになる。ハティジェはそのホテルで出会ったまんまるとした裏声で喋るお掃除担当の女性。
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 今日はアンナがパムッカレに来るらしい。アンナって誰だろう。聞いてもよくわからない。みんなもよくわかってないのかもしれない。名前からしてトルコ人ではなさそうだ。では、一体どんな人なのだろう。そんなことを思っていたらどうやらアンナが来た。みんなと頬にキスを交わしながら挨拶をする。みんなの様子からしてボス級の人間であるようだ。しかしこれまたまんまるとした体型だ。ハティジェのようなトルコ語しか話せない人にはトルコ語でやりとりをするが、基本的には英語だ。しかもアメリカ英語ではなく私がいまいち聞き取りにくい英語だ。「ああ、あなたがリカね。」ニコッ。一目でわかる、この人は優しい。久しく目にするここらでは珍しい教養の深い人だ。どうやらこのボス級の人間にとっても私がこのホテルにいることは問題ないらしい。

 のちのちわかったのだが、アンナはオーストラリア出身で7年ほど前(当時2013年から数えて)にスタンブールに英語教師としてトルコにやって来、そこで出会ったアデムとメティンと3人で、このホテルとそれに連携する旅行会社を経営する会社を発足し今にいたる。アデムがオーナーで、メティンはツアーガイド、アンナはマネージメントを担当している。最初はアンナがこのホテルのマネージャーとして活躍していたが(その頃のホテルの評判は村一番であった。)今は旅行会社の方に専念し、オフィスのあるエフェス遺跡観光拠点地のクシャダスに住んでいる。ホテルの評判も経営に関わるので気にかけていて、時折我々ホテル経営陣を教育するためにはるばるパムッカレにやってくるのである。

 その時もまた、英語の得意なトルコ人の親しい友人の通訳を介して、レセプショニスト以外でもお客さんには笑顔で挨拶する大切さや、ホテルの整理整頓、清潔さが不足していること、それがホテルの評価にも響きみんなのお給料にも関わってくることなどを説明していた。その様子を見ていた私は、アンナがボスなら働けるな、と思った。彼女は理不尽なことは一切しない言わない人柄であることがわかったからだ。

 そうこうしているうちに月日は流れ、とうとう私のパムッカレ旅立ちの日が来た。ボーイフレンドが私の金を使い始め、挙げ句の果てに海外からバカンスにやってくるガールフレンドへ会いにオリンポスに出かけてしまったのだ。日本で恋愛経験が一切なかった私は良いカモになってしまったのである。泣いて泣いて泣きまくり、恨んで恨んで恨みまくったが、そいつのおかげで面白い経験ができたのも事実だ。ましてやそれから先の私に起こる全ての素晴らしい経験があるのは、このときこの悪い男を信じてトルコにとどまり始めたからに他ならない。そいつは女と一緒だなんて私には言わずに出て行ったので私がフェイスブックを介して事実を掴んだなんて思ってもいやしない。帰ってきてレポート用紙6枚分の恨み辛み文を読んで驚くであろう。そんなこんなでここを出ることを決断した私はまだエフェス遺跡を見ていなかったので、もう一つの拠点地セルチュクへ向かったのである。

 セルチュクのとあるペンションに滞在し、エフェス遺跡を観光した。そうだ、クシャダスも見てみたいな、あ、クシャダスにはアンナがいるな、と思い、アンナに連絡をした。アンナは快く自宅に招いてくれ、事情を知ったアンナは自分の家にもう1部屋あるから1週間くらいゆっくりしてこれから先どこにいくか決めたら?と言う。なんと慈悲深い。私はお言葉に甘えてアンナの家で1週間過ごさせてもらうことになった。アンナの家はフローリングで(トルコはタイル張りが主流に思う。)シンプルな白い壁にバルコニーからは青々としたクシャダスの海。港には大きなクルーズ船が朝目が覚めるともういて、夕方汽笛と共に大海原へ去って行く、次の朝は違う船がいて、夕方再び去っていく。旧市街にはバザールが広がり、絨毯や皮ジャケット、お土産などが売られている。海沿いにはカフェが並び、歩道が広がり、小さい街ながらにも賑わっていて小洒落ている。毎日同じところをぶらぶらしているだけで1週間なんてあっという間に過ぎていく。次はどこへ行こうかな、そう考えていたそのとき、アンナの家にアデムがやってきた。オーナーだ。彼は私の状況をアンナから聞いたらしく、会うなりいきなり、「お前はうちで働く。」と言い出す。まただ。ハティジェ同様彼の中ではすでに決定事項だ。あの村出身の人間は他人に選択の余地を与えるという概念がないのだろうか。

 いろいろ条件を聞くと、給料は少ないが住む部屋は会社が提供してくれる。朝食と昼食もオフィスででるから食費も夕食の分だけ自分もち。そんなに悪くはない。仕事内容もとりあえず英語のホームページを日本語に訳すだけだから別にお客さんと話す必要もない。何よりアンナの元で働ける。もう自分の上司は人格者であることがわかっているのだ。別に日本にも帰りたくないし、ビザもとっちゃったし、条件を飲みもう少しトルコにいることにした。

 部屋を会社の社員用のところへ移り、朝9時にオフィスへ行き、午後5時にオフィスから出るという生活が始まる。アンナの指示に従い、ホームページ作成の複雑な機能をいじりつつ翻訳作業を進める。主に観光地やツアーの流れの説明だ。この旅行会社の提供するツアーがどのようなものかを知るためにも、何回かエフェスやパムッカレのツアーに同行した。新米日本語ガイドの日本語ブラッシュアップ係も担当した。月末は、アンナに細かいところに気がつくところを買われ、どの代理店とどれくらいの取引があったか、いくらすでに受け取っているかをチェックし各代理店への請求書を作成する。アンナは自宅で仕事をすることも多かったが、一人一人の従業員の得意なところを見つけ、その人にあった役割を担わせる、そんなことができる上司なのだ。アンナに必要とされていると実感できた私は、ここにいて良いのだと感じることができ、鬱になったりしない穏やかな日々を過ごしていたのである。しかもアンナは私に自治体主催のトルコ語講座にいくことを許可してくれたり、その後見つけた夜のショーの仕事をすることも、そのために時折早退しなければならないことも許可してくれるほど、一従業員の人生を考えた判断をしてくれる上司なのである。

 半年経つか経たない頃、翻訳作業も終わってこれから日本人旅行者の客足を伸ばそうというとき、私のルームメイトが兼ねてからのの自分の夢でもあった日本企業の面接に行きたいと言い出した。彼女は大学で5年間も日本語を勉強し、そこらへんのガイドよりも日本語ができるし読み書きもできる。以前パムッカレ支店にいたときは毎日日本人旅行客がいて自分の能力を活かして働けていたのだが、ここクシャダス支店に移ってからは仕事で日本語を使う機会がない。彼女はアンナに自分の希望を話し、アンナも彼女の夢を後押しした。彼女は優秀な人材で、私が上司であったらなんとか言って手元においておきたいのだが、アンナ自身も自分の能力を活かした仕事をする幸せを知っているのだろうか、彼女を送り出す決断をした。なんと懐が深い。

 晴れて私のルームメイトは日本企業へ採用され、旅行会社をあとにすることとなるのだが(ちなみに2018年に久しぶりにあったとき、日本企業にかぶれてしまった彼女のバイブスはなんだか落ちたように感じた。なんだか幸せそうではなかった。)彼女のあとを継いで入ってきた女性ができる女を気取っているくせにいささか雑で、飛行機チケットの日にちを間違えたり、いろいろとケアレスミスが続き、それはもちろん会社のお金を損失するにも至るわけなので、アンナは度々注意しなければならなかった。その頃トルコはテロやシリアの戦争のこともあり観光客が激減してきており、その会社も経営が芳しくなくなってきたようで、会社のお金で賃貸している部屋に住む外国人に嫉妬の目が向いていき、どこからともなくタメルというパムッカレ大学のマネージャーが経理のタハシンと現れ、この会社を乗っ取りたかったのかなんなのかアンナにいちゃもんをつけ始めたのだ。自宅でアンナはちゃんと働いているのに、サボっているだとか、会社の金を横領しているだとかなんとか言ってきて(アンナは実際に何ヶ月も自分の給料をとっておらず、タバコと食事分だけちょこちょことっていた。このちょこちょこついている帳簿を見て言いがかりをつけ始めた模様。給料の分の記載がないのは棚に上げて。)アンナが最大の理解者であると思っていたアデムまでもが彼らの言うことにそそのかされてしまい、一緒になってアンナを問いただし出した。それが一番アンナの心を傷つけた。そもそもアンナは感受性が豊かで、カッパドキアで殺されてしまった日本人旅行者のことを話す際感極まっていたこともあるほど、人の気持ちに寄り添ってしまう分だけ今回のことはことさら悲しかったのであろう。

 そしてそのときは、来た。アンナは自分の子供のように育ててきた会社をやめる決心をした。優しさの反面ガッツもあるアンナはこの会社をマネージメントすることを生きがいにしてきた。男性社会で、しかも異国の地で、彼女はいわば戦士のように戦ってきたのだ。手塩にかけて今まで築きあげてきたものを手放すなんてよほど辛かったに違いない。私はアンナがいるから働けていたのでやめてほしくなかった。それでもアンナのことを思うと、悲しみの原因からは離れた方がいい。それから程なくして、誰も私の使い道をわからなくなったこの会社は私に日本部門の閉鎖を告げる。まあ、そもそも日本の大手の旅行会社に価格がだいぶ負けてる状態でこの会社に勝ち目などそもそもなかったのだが、ショックではあった。しかしながら私の上司はもうアンナでもないし、いるのはアンナに反旗を翻した奴らだけなので未練はない。ただ、この先どうしよう。夜のショーダンサーとしての仕事は続くのに寝床がない。そんな不安を抱えた。

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 なんだか今回も長くなってしまいました。最後まで読んでくださった方、もしいらっしゃったらありがとうございます。その旅行会社はアンナ不在の中、経営を立て直せるわけもなく、規模は縮小し今では当時のホテルのマネージャーであった男が細々とやっているらしいです。もっと大きくしたくてのっとったくせに。アンナは何よりお客さんに提供するもののクオリティを考えていた人なので、それがなければコンテンツはカスカスになり、評判も落ちてしまいます。アンナとはその後も交流は続いていて、まだ私がクシャダスにいた頃はちょいちょいお茶して近況報告していました。私の恋愛経験をアンナはほとんど知っています。笑。それでも引かずにフェイスブックなどで私の日々の成果報告にリアクションしてくれ、コメントもたまにしてくれます。彼女はその後いくつか他の旅行会社と仕事しており、今でもクシャダスで愛犬と一緒に暮らしています。いつかクシャダスにホリデイにいけるように頑張ろうと、私は今思っているだけなのであります。私はただひたすらにアンナの幸せを願っているのであります。次回は、アーニャとオクサーナについて書こうかな、と思っています。

dorco-siva

dorco-siva

1991年埼玉に生まれる。大学卒業後何故か生活拠点が日本から離れていき、5年間のトルコ生活を経て現在はモルドバに停泊中。

Reviewed by
アンニ

辛い経験をしたからこそ開ける道もあるが、たまにその辛い経験から立ち直るためには他人のサポートが必要。どるこさんが失恋した時にサポートをしてくれたのは上司のアンナ。思い遣りのあるアンナは就業員一人一人の成長を願い、彼らの夢を後押するのと同時に、マネジメントもしっかりしている。彼女は最終的にトルコ人のビジネス・パートナーと上手くいかなくなるが、この世にアンナのような人間がもっと必要な気がしてならない。

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