暁の人類学(3): 創造力としての過去について

長期滞在者

時間というのは不思議なものだな、と最近あらためて感じています。いま現在、この文章を書いている瞬間はあっという間に過去になり、歳月がたてば思い出すこともさほど多くはないでしょう。そして私が、数分後、数時間後、数日後をともにする未来の「いつか」は、現在の私にはどこまでも曖昧な異物です。想像はできます。予想もできます。でも、絶対に同じものではない。現在の未来としての「いつか」と、未来の現在としての「いま」は。

もちろん私たちはいつもこのような思考に流れるわけではありません。時間割やスケジュール手帳やカレンダーがあります。過去を現在に、現在を未来につなげてくれます。その線上を歩んでいく私たちの姿を浮かびあがらせてくれます。歳を取ると固有名が思い出せなくなる。それはちょうどWindowsのファイル・システムのように、フォルダが幾重にも含みこまれたツリー構造のなかで私たちが思考するからかもしれません。繰り返される類似した出来事を同じ名前のフォルダに入れ、さらに類似したフォルダを一つのフォルダに収納していく。そのようにして私たちは流れる時間を空間的に整理整頓し、フォルダの遥か下にあるファイルに直接たどり着くことが段々むずかしくなっていくようです。

だから私たちは未来に期待するのかもしれません。何か新しいことが起こる。安定はしているけども退屈なツリー構造を破壊するような、何か新しいことが。でも、本当にそうでしょうか?未来の「いつか」、全てを壊し作り替えてくれるような瞬間があるとして、それはどこからやってくるのでしょうか?

現在から?いまこの瞬間の無数のひらめきや努力や葛藤や絶望から?それは良い話です。私もなんとなく「そうだったらいいな」と思ってきました。でも、最近そうでもないように思えています。そんなシンプルな話でもないのでは?そんなシンプルな話だと思っていると足元をすくわれるのでは?そんな抽象的な、でも切迫した、でもぼんやりとした危機感があります。

仕事柄、昔の出来事を調べることが多くあります。歴史家や思想史家ほどではないにしても、古い文献、古い記事、古い写真、古い言葉に出会います。そいつらは「いま」を生きています。だってそうでしょう。それは過去の「いま」から発せられています。そいつらを過去としてしか扱えない現在の「いま」なんか知ったことではないのです。過去の「いま」は、それが目指す未来の「いつか」に向かって走っています。その先にいるのが見知らぬ顔をした私たちであることも知らずに。

でも、私たちは出会います。過去の「いま」と出会います。何かを喪失するという形で。喪失を自覚するという形で。現在の「いま」には決して現前することのない過去の「いま/いつか」。それは常に失われたものとして、回帰できないものとして、獲得できないものとして私たちを圧迫し、突き動かしている。何かが作られます。過去の「いつか」を再現するものとして、過去とは似ても似つかない姿で。それは「ノスタルジア」と呼ばれるものとは違います。断固として同じものではありません。むしろ、私たちは過去を迎えにいくのではないでしょうか。かつて誰かが夢見たものを、その実現を確信していたものを。全く異なる夢と全く異なる確信と、そしておそらくは少しばかりワクワクする不安と一緒に。

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