暁の人類学(2):どこかにある、どこにでもある物語について

長期滞在者

 ある物語について話したいと思います。題名は書きません。それはマンガであるかもしれないし、小説であるかもしれないし、映画であるかもしれない。一つの作品であるかもしれないし、複数の作品が混ざりこんでいるようにも感じます。ちょうど子供のころ読み聞かされた絵本を夢のなかで見るような、フィクションが展開される向こう側と鑑賞するこちら側が自在に交差するような、楽しいような辛いような経験について書きたいと思います。

 物語が中盤にさしかかるころ、「性格の歪みは個性の原石なんだよ」と、メインキャラクターの一人が言います。このセリフを通奏低音のようにして、特殊な環境に育った主人公たちは様々な人物と出会い、強い意志で困難に立ちむかい、まわりの人々に見守られながら自分の人生を歩んでいきます。もちろん、全てのハードルを強靭に乗り越えるわけでもなく、失敗や試行錯誤をユーモラスに繰り返しながら。よいお話しです。でも私たちはなんとなく感じてしまう。「性格の歪みが個性の原石であるなら、個性の核にあるのは性格の歪みなのだな」と。

 フィクションと現実のもっとも大きな違いは、前者には明確な境界があることです。物語に描かれていないことは物語世界には存在しない。何を描いて何を描かないかは、作り手に一任されています。「人生という物語を生きる」と言うこともできますが、私たちは現実に含まれる要素を全て自分で決定することはできない。フィクションは限定されている。でも、それを楽しむ私たちの現実はそれほど明確に限定されていない。だから、「歪みが個性になっていく」物語は、その外側にある「個性の核に歪みが現れる」状況を想起させてしまう。その人となりに惹かれて親しくなり深い関係になった近しい人物のちょっとした言葉や仕草に、たやすく回収できない違和感を覚えてしまうように。

 でも、フィクションはその外部に対して全く無力なわけではありません。それは切り取ることによって、切り取った内側を構成することによって外部からの視線に対峙する。場合によっては、外部の視線を代弁する要素が作品の内側に現れます。たとえば、主人公の「個性」や「意志」や「人生」を、「歪み」として捉える人物が近づいてくる。作品世界は緊張し、熟成されてきた「よいお話し」は危機に陥ります。主人公の周りに次々と心やさしい人物が現れ、敵対する人物から世界を防衛するために、善意が増え続けるかもしれない。敵対する人物との激しいやり取りを通じて、主人公も敵も次第にその有様を変えていくかもしれない。外部はただ外部として、物語の終盤にポンと提示されることもあります。それらをどう受け取るかは、受け手に任されている。そのようにして私たちは物語を生きています。

 物語と現実が明確に区別されるにしても、私たちの多くは何らかの物語を求めます。マンガや小説や映画、仕事や夢や歴史や国家、日記や会話やSNSの自分語りを通じて、外部を排除し、内部を構成することによって、自分にとっての現実を生みだしてもいます。でもそれは、物語を通じて常に外部と接触することでもあります。私がひとつの「歪み」であるならば、それは私と誰かのあいだに存在する。だから私は、誰とでもつながっているし、同時に、誰ともつながっていない。その楽しさと辛さを浴びるようにして、今日も私はどこかにある、どこにでもある物語を生きています。

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