ある日、チェロをもらった。チェロをくれたのは詩人だった。編集の仕事を通じて出会い、打ち合わせで自宅にお邪魔したときのことだ。大学の管弦楽団で弾いて以来あまり弾いてないのだというチェロは、白いケースに納まって佇んでいた。ケースを開けると中は鮮烈な赤のベルベットで、明るい色をしたチェロや弓やチューナーなど一式揃って入っていた。
彼女と実際に会ったのは2度目だったのに、弾くならあげます、と差し出され、私は私ですんなりと受け取ってしまったのだった。
一緒に仕事をしはじめて約1年経つ。彼女の連載はゆっくりとした始動だったものの、この半年ですっかり「この連載でやるべきこと」を掴んだ彼女は、必然とも言える写真家とチームを組めたことによって加速した。写真家も文章を書く人だった。気の合う私たちは道中や仕事後に、たくさんの個人的な話をしあった。人と人の巡り合わせは本当に不思議。
はじまりは、出張先の京都の恵文社でなにか記念に、と何気なく手に取った彼女の詩集だった。まず表紙とタイトルが好きだった。買って読んでみたら親近感を感じる単語や描写なのだけど、どこかSF映画の宇宙船の中のように静かで、感情的な語りから切り離されているように感じられるのが好きな点だった。
ツイッターに詩集の感想を書いたのを彼女にリツイートされたことをきっかけに、私は彼女に書評の仕事を依頼し、彼女は私のツイートで彼女が好きなミュージシャンの来日ライブを知り、まだ本当には出会っていない私たちが実は同じライブを観ているということもあった。それからちょっとして、彼女の連載をはじめることになった。
同時に、私がチェロを習いはじめて約1年経つ。こちらは連載と比べるとおそろしくゆっくりとした進歩。はじめはこんなにチェロの音を出すのは難しいのかとレッスンのたびに気後れした。自分の出す音の醜さにびっくりしてしまったのだ。ピアノは叩きつけないかぎり誰が弾いてもそれなりの音が出るものなのに、チェロときたら……。
第一に身体の力を抜かなければいけないし、姿勢はまっすぐに保たなくてはいけない。それだけのことに、毎回とても緊張してうまくできなかった。身体の力なんて、抜いたことがなかった。仕事のときも家にひとりでいるときも、私は力を抜くということが本当にわからないでいたことに気が付いた。チェロを習うことは私にとってはなんとなく、「禅」をやるみたいな感覚でいる。
詩なんてしばらく触れていなかったのに彼女の詩に出会ったことは、自然とダンスに引き寄せられている今の状況とつながる気がしている。
彼女の詩は、建物のように大きくてさまざまな部材で構成されているものにも、ダンスのように挙動のつながりが「なにか」を生み出す場面にも、言葉で触れることができる。彼女が触れると、見るよりも識るよりも、その言葉が正確なものに感じられる。頭で考えているだけでは違ってしまうような、身体で感じることで生まれる言葉に惹かれる。
私たちは人間である以前に生き物で、生々しい身体を持っていて。そりゃそうなんだけど、しばらく忘れていたような気がする。チェロがとても身体的な楽器であることを知り、初めて感じる振動に目は覚め、いち音いち音が私の骨に響く。「身体が」鳴らされていると思う。そうして、切ない気持ちになる。そのチェロを彼女からもらったことは、私が今生きていることの意味に結びつく。
なにごとにもタイミングがあることを、彼女とチェロとの出会いから知る。