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2F/当番ノート

アンテヴァシン / 境界に住む者

当番ノート 第4期

病院という場所で病人としてではなく、
看護する側としてそこで生活をする日々を体験した事があるでしょうか
私には過去、病院で実際に寝泊まりをし、
日中仕事の時間はそこから出勤していたという日々があった

自分が検診などでたまに病院へ行く分には
あのエタノール臭や(たとえ光がたくさん入る病院であっても)なんとなく
薄暗く感じる空間、それから放射能注意と無機質に冷たく書かれた文字の扉などに 
早くここから出たいと思う
病院から出て太陽に当たり人の流れにもどると安心する

けれども そこで死に向かう人と同じ時間を過ごした間
私は生と死についての、それまでの自分の概念が変化していった

 最初の頃はわたしの大事な家族が病に冒されいずれ消えてしまうであろうことが
信じがたかったし受け入れることができなかった
私は沢山の夢をみたし 夜そっと病棟のトイレなどで声を殺しつつもわんわん泣いた

ところが泣くような日々が繰り返されるうちに
ひとしきり泣いた晩には必ず 病室の外の柊の葉は青くきれいに浮かび上がって
天に向かい その葉を風で鳴らせていることに気付いた

死を分つその場所では 色彩はうすいけれど
その色は重く、すべてが透明がかっている
透明な膜のような、もやのようなもので守られてる感じがして
わたし自身ですら看病のさなかであっても 満たされた気持になったこともあった

 ホスピスの一室であったその大部屋では
まだ意識がある、あるいは声を発することのできる患者さん達は
(ほんとうの、ほんとうのところの気持なんてきっと私には知る由もないのだけど)
ニコニコと今日は痛みはないかい、とか 昨日の吸引はつらそうだったねぇなどと語らっている 
とても穏やかで、外の世界で時折感じる人間の作為めいた類のようなものが一切なかった

 特に病室に西日が射す日などは
もう言葉にならないくらい患者さんの顔も病室に飾られている植物達も
きらきらと光って 花が生けられたガラスの花瓶からはプリズムが解き放たれているし
そして患者さんの言葉は、きっと辛い治療をたくさん経験してただろうに
相変わらずそういうこともをまるで意にも介さないような話ぶりで
ここにいる人たち、そして私自身までもが すでに異界(言い換えれば天国のような所)
にいるのではないかと錯覚してしまう程であった

 そしてわたしがそこで生活している間にも数人の方が亡くなられては
そのベッドに新しい患者さんがやってきた

 それでもその場所には確かにそこにしかない美しい一定の調和があった
病との闘いという、つらくさびしい経験の中にのみ訪れるある種の自由さがあり
悟りがあった
 でもその様子はまるで停電の中でも毎日使うものは闇の中でも手探りでそのものを
手にとることができるような、自然さだった

 私は死に向かう人は 下り坂を自転車で降り始めているのだから
もう漕ぐ必要はないんだなと感じた 
私は死へ向かう人の時間と共に生と死の境界をほんの少しの間、生きさせてもらったのだ

 死が悲しいと決めつけてしまうことは生きている者の概念である
もちろん大切な人が(私の家族の場合は癌であったが)命を閉じるのは途方にもなく悲しい

けれども、死に向かってゆく人は、死んでゆく、のではなく 
次の場所がその人”向かって”来ているのだ

当たり前ではなかったあの日々が過ぎ去って
また当たりまえの生活が戻ってきた

ただあの頃と違うのは
今私は生は死の伏流であるにすぎず
死は決して生と遠いところにあるものではないと
いつも心のどこかで感じるようになったことだ
   
                *

と、スピリチュアルな側面ばかり書いてしまったけれど
実際には途中の治療の辛さもたくさん見てきた
それから こういう体験をさせてもらったけれども
病院とういう場所への疑問も残っている
そのことについても 書く事ができたらいいなと思う

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野坂 実生

野坂 実生

photographer  レタッチ作品をメインに写真を撮っています
撮影ならびにレタッチ、補正承ります

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