1989年6月27日 最高気温24℃ 最低気温17℃ 曇りのち晴れ
「自室であるものを飼いだしたので、見に来るように」
自宅のドアにそう書かれたメモが挟まっていた。差出人の名前は無い。誰の仕業であるかはこのダ・ヴィンチの手稿の文字に似た筆跡を見れば一目瞭然であるのだが。
その日の仕事を終えた19時半、私はいつものように鮮魚店で仕入れた魚を片手に彼、ピゴの元へと向かった。
ピゴの住む動物園はもう閉園時間をとっくに過ぎていたので、身分証を見せ裏口から入った。運動場から寝室に移動している神経質そうなキリンの横を過ぎ、運動場の高台の上で北極星を探しているシロクマの前を横切り(北極星はそっちじゃなくて反対側ですよ、と声をかけた)、何かの儀式を行うかのように運動場の淵を時計回りに回っている3頭のゾウを尻目に、ペンギンエリアへと向かった。
事務所などヒトの居る建物を除くと、もう明かりが点いている建物は彼の部屋だけだった。日没が近づき、空はブルーベリーソーダのような色に染まっていた。この空気の紫紺はアントシアニンの色だろうか。
「入るよ」
コン、コン、コン。
3回ノックをした。親しき仲にも礼儀あり。私は彼にこの言葉を耳にタコができるほどに聞かされた。返事の代わりに、「チン」とベルが鳴った。言葉を発することのできない彼が最近発明したコミュニケーション方法の一つだった。
先日のこと。筆談をするよりもモールス信号を打った方が早いのでは、と私が問うと彼は両翼をそうか!とばかりに打った。彼と出会ってから早くも3ヶ月が経過していたので、そのお祝いにとレストランでよく使われているボタン式のベルを進呈したところ、彼はいたく気に入ってくれたようでそれからずっとこれを使って会話をしている。もっとも、音量がとても大きいので、うるさいなと思うこともあったのだが。それも慣れだ。
中に入ると、いつも乱雑に本や書類が積み上げられている机の上は綺麗に片付けられ、円形の見慣れぬ装置が載っていた。
「ピゴ、君は今度は何を飼いだしたんだ。言っちゃ悪いが、君はどちらかというと“飼われている”側じゃなかったっけ」
私がそう言うと彼はぐりっとこちらにクチバシを向けた。
“動物園は動物の為のアパートメントだ。ヒトと我々の利害が一致しているから、我々はここに住み、その営みをヒトに見せる。ヒトは、それによって同族から対価を貰う。合意の上だよ”
彼はベルを高らかに響かせ、そう言ってアジを頭から丸呑みした。
“-・-- ・・- -- -- -・--”
Y・U・M・M・Y。
う・ま・い。
しばらく彼の咀嚼音だけが部屋に響いていた。彼の恋人である金魚のクローナは私の頭の上で八の字を描いて回遊していた。
夕飯を食べ終えて満足したのか、ピゴは本題を切り出した。
“とても珍しい生き物をね、捕まえたんだよ”
そう言って示したのは机の上の奇妙な装置だった。白い発泡スチロールの箱の中に、丸いアクリル製の窓が嵌まっている。窓の中は真っ黒で、それは宇宙船の窓を連想させた。しかし、その中に生物が居る気配はまるで無かった。
「何も居ないじゃないか」
彼はまあまあ見てなさい、とでも言いたげに翼を動かすと冷蔵庫の方へ向かった。そして冷凍室から細かく砕かれたドライアイスを取り出し、箱の中に入れた。それをプラスチックのスプーンで平にならし、丸い窓と筒の付いた蓋をその上に置き、ぐっと力を入れて抑えた。そして窓の縁に沿ってスポイトでアルコールをたっぷりと垂らしはじめた。時折触って感触を確かめ、それが終わると正方形のアクリル板でその上に更に蓋をした。そして彼は明かりを落とし、箱の斜め上からスタンドのライトを当てた。
どこかで見た光景。しかしそれが何だったか思い出せない。自分の仕事に関連したものだったと記憶しているが、咄嗟にその装置の名前が出て来なかった。
何だっけ、何だっけ、何だっけ。頭の中の引き出しを片っ端からひっくり返しながらその装置の窓を覗いていた。頭の中を断片的な記憶が横切る。鉱物標本。骨格標本。剥製。白いカーテン。黒板消しの匂い。アルコールで消毒した手の感触。
5分ほど経過しただろうか、黒い窓の中にすっ、と白いものが横切った。
「あっ」
思わず声を上げる。するとまた白いものが。
すっ。
すっ。
すっ。
その飛行機雲の赤ちゃんのようなそれは徐々に、無数に増殖していった。いつまでも見ていたくなる光景だった。
「ピゴ、これは?」
箱の中を見つめながら彼は満足そうに何度も頷いた。
“ニュートリノ、ですよ”
思わぬ答え。彼は続ける。
“これはニュートリノの家だ。みんなここに帰ってくる。だから私はいつも彼らを見る度、こう思うのだ。お帰り、と”
「この見えているのがニュートリノのはずはないよ。あれを観測するのには、もっと大きな装置が要るんじゃなかったか」
私はそう反論した。そして思い出した。これはその昔私が通っていた学校の教師が、作って見せてくれたものだった。学校に馴染めず保健室で塞ぎ込んでいた私を、よくこっそり理科室に連れ出してくれた、あの教師。
「いいものがあるんだ」
教師は特別大きい飴を取り出した時のように、そう言って笑った。その教師の横顔を、彼の中に見たような気がした。
“いいんだ。きっと恥ずかしがっているだけで、きっとどこかに隠れてるんだろうさ”
ピゴはククク、と笑った。私もつられて笑った。あの時と同じだった。