最近、「美味しい」という感覚が非常に多くの意味を含みすぎて曖昧だなーと感じています。
「美味しいものは、身体に悪い。」と、聞く事がしばしばあり、
そういう場合の”美味しい”は、砂糖がたっぷりのジュースやお菓子とか、
脂がたっぷり乗ったお肉や揚げ物とか、
パンチの効いた塩味を指しているのだなーと思いつつ…
でも最近…特に健康や食に関心のある人たちは、
食材そのものが持つ、天然の美味しさに目覚めています。
一度、天然のものばかりの食事を3日程とっていると、
ありふれた科学的な添加物が入ったものに、強い違和感を抱くようになります。
そして薬膳で自分の体質に合う食材を調べると、不思議と好きなものが多かったりして、
身体が必要なものを欲していたことに気付きます。
「美味しいものは、身体に良い。」
美味しさや食欲は、たまに真ではない。
天然の美味しさは、きっと身体を裏切らない。
人工物がたまに凶器になるのは、人間が時に正しく、時に嘘をつくからなのかしら?
調理道具も発達し、食材も十分以上の量が出回り、改良され、
美味しい味がありふれた。
その反動もあってか、味のバランスが調っている美味しさから抜け出そうとする挑戦が増えており、
世界各国で賞賛されています。
ミシュランで世界一に何度も輝いたNOMAも、
日本を代表するレストランのアルケッチャーノも、
依存性もある塩、脂、旨味、甘味などの強烈な20世紀の美味しさから一線を引き、
むしろそれらを欠くことでローカルの食材そのものの味にもう一度焦点を当てて
新しい価値の提案、新しい美味しさを提案しています。
”美味しい”の意味は、時代と共に変わる。
食の価値観も変化する。
価値観は常に変わり続けているので、
よりゆるやかに、違いを受け入れることが”自然”。
生き方そのものである食生活は、宗教や体質•体調、信念に直結しているため、変更が難しい。
インドの機内食の選択肢の多さは、それを物語っています。
(ヒンドゥー食、ユダヤ食、糖尿病食、低脂肪食…ベジタリアンだけでも3規格あります。)
同じ食卓を囲めるということは、
同じ価値観を持って、共に生きていける仲間だということ。
何とも嬉しいことだと、いつも一緒に食べてくれる人に感謝しています。
神道の”直会(なおらい)”も、
神様が先に香りなどを召し上がったお供え物を、
人間がお下がりをいただくことで神様と同化する意味があるようです。
同じ物を食べると、一つになる。
食べ物が身体を作るから、同じ身体になっていくのですから納得です。
体内でつながる深い縁を作る。
関係を築く時に食が担う役割は、なんと大きいことでしょうか。
おいしいものを一緒に食べましょう。
そんなシンプルで幸せなことが、価値観の違う家族とも、仲間とも、
円満でいられる秘訣なんだと思います。