6-1
鉄板に、油を流す。全体に行き渡って少し余るくらいの量が望ましい。でもホットプレートだと、どうかな。フライパンとは勝手が違う。羽付きに、出来るかどうか。
油が熱くなるのを待って餃子を並べる。このじゅわあという音が佐竹は好きだ。触れた点からちゅっと焼け、面が油に浸される。ちゅっじゅわあ。ちゅっじゅわあ。の心地よい連続。この「ちゅっ」もいい。出来るだけ隙間なく、最短時間で並べたい。初めと終わりでなるたけ焼き加減の差がないように。
佐竹は餃子のマエストロ。
“焼き”が佐竹の専門だ。
“包み”はちょっと難しい。
だけど“並べ”じゃ負けないぜ。
見て欲しいんだ皮のつやめき。
油、はねる、よける、さたけ、
「すげー。美味そう」
ビクッとして振り向くと、大熊がのぞき込んでいた。
「タッチー、上手いね」「あ、僕が作ったわけじゃないですよ」「いや、並べるの」「ああ」
グラスを受け取ると、大熊がビールを注いでくれた。
「お疲れ。今日はほんと、ありがとね」
6-2
「え、餃子?」
井尾が帰宅したとき、男二人はもう完全に出来上がっていて、空になった缶が床に散乱していた。荷物はすべて運び込まれ、段ボールが山と積み上げられている。「おかえりー」と大熊がひらひらと手を振って、「井尾さんも、よかったら召し上がってください~」と言う佐竹は首まで赤い。「ホントすいません、すごいお待たせしちゃって!」という言葉に「待ってないから大丈夫ぅ~」と笑い合う二人はどうやら上機嫌のようで、井尾はほっとしながら、ビールのグラスを受け取った。
いやでも昨日はマジでびっくりしたよな! 何がですか? だってさ、もう大体詰め終わって掃除でもしてる頃かな~くらいの気持ちで井尾ちゃん家行ったら、もう全然! 荷物散らばりまくった中でマンガ読み耽ってる人いるから、ほんと帰ろうかと思ったわ!
ちょうど休憩してるタイミングだったんだって、と言っても聞いてない。昨日のあの状況から無事引っ越せたとか、奇跡としか言いようがないね! と言ってタッチーにまたビールを注いで、大熊くんは終始嬉しそうだ。このサタケって人のこと、相当好きなんだな、前から話には聞いてたけど。大熊くんが気を許してるのが分かる。
今までは二人でいることばかりだったから、大熊くんといる場に他の誰かがいるのが不思議な感じ。でも嫌じゃない。むしろ、そういう一つひとつが自分たちの助けになってくれるように井尾は思う。生活をして、長い時間を一緒に過ごすことを思ったら、二人ではすぐ目詰まりを起こしてしまうんじゃないかと怖かった。この小さい部屋で、ケンカをしたら逃げ場がないな。と思って改めて、部屋の中をじっくり見回してみる。本棚の手前のところに倒れている、レゴの人間みたいな、頭がクマ型の人形は、よく見たら顔がウナギイヌだ。たぶん全然使ってない、体を鍛える通販グッズみたいなやつもある。色付きの輪ゴムとクリップが、東南アジアっぽい木のお皿に入ってる。請求書っぽい封筒が何通か、未開封のまま置いてある。カーテンの長さが窓に合ってない。ていうかよく見たらカーテンじゃなくて、なんか適当な布だ。
大熊くんが自分でやった生活の工夫(?)みたいなものが、可笑しくて可愛いなと思った。何度も来ているはずなのに、知らない部屋のような気がした。でも今日からここに、私の時間も重なるのだ。そう思うと、こそばゆくて不安なような、楽しみなような気持ちになる。
そうだ、今度大熊くんを彩に会わせよう。
6-3
……と、井尾が大熊との新生活への決意を新たに固めている間、マエストロ佐竹は淡々と、次の餃子をちゅっじゅわあしていた。
「そろそろ第3弾が焼けるんで、井尾さんも、よかったら」
「あれ、俺らもうそんな食ってんの?」
「うわ、超いい匂い! 佐竹さんが作られたんですか?」
「いや、」
「井尾ちゃんも、タッチーでいいよ」
「え、ほんとに?」
「あ、はい、どうぞ」
「じゃあ、タッチーで。…熱! いけど、おいし~!!!」
「タッチーん家は餃子屋さんだもんな」
「違いますよ、センパイ! ウチ、実家が工場で、食肉関係の加工をやってるんですよね」
「へーそうなんだ! タッチーは、兄弟いるの?」
「妹がいるんだよな」
「違いますよ、センパイ! ウチは僕一人っす」
「あれ、そうだっけ? 妹いるって言ってなかった?」
「言ってませんて」
「じゃあゆくゆくは工場継ぐ、みたいな感じだ?」
「違う違う」
「いや、なんでいちいち大熊くんが答えんの(笑)本人いるんだからさ」
「タッチーはお笑いやってるんだもんな」
「え、ほんと!?」
「あ、それはほんとっす」
「へえ、すごい! ねぇ、今度見に行こうよ」
「そうね」
「大熊くん的には、タッチーのお笑いはどうなの? イケてんの?」
「あーそうね、」
「それがセンパイ、一度も見に来てくれたことないんですよ」
「え、そうなの!? 見に行けよ!」
「僕も毎回お誘いしてるんですけど」
「あーでも分かる。この人ってそういうとこあるよね」
「や、ちょっと待って。見たくないわけじゃないんだけど、俺くらいになっちゃうともうね、むしろ見られない」
「はあ?」
「なんか居たたまれない気持ちになっちゃうの」
「なんでですか!」
「……兄的な?」
「やだーきもいね、タッチー」
「はい」
「いや、俺タッチー大好きじゃん」
「つーか、なんでタッチーなの? さたけでしょ」
「さたけのた」
「なんでだよ。まあいいや、じゃあさ、タッチーの次の発表会?」
「あ、ライブっす」
「ライブライブ。二人で行くからさ」
「まじすか!」
「ね?」
「おー。チケット送っといてよ」
「あ、ハイ」
「がんばれよな!」
「がんばりまあす!」
6-4
と言って、マエストロ佐竹はランナー佐竹に戻って走り出す。テンポを守った規則的な足の運びで駆けていく。
佐竹は待っている。彼の大事な女の子が、いつか彼のことを必要としてくれるのを。その日のために、身体を鍛えている。
今はまだ、そのときではない。でもいつか、その日が来たときには最大限役に立てるよう、走っている。その日がいつなのかは不明だが、それなら余計、出来るだけのことをしておかなくてはならぬ。佐竹はそういう男である。
しかし、必要とされるときが来ないなら来ないでかまわないと思ってもいる。それならそれに越したことはない。それでも彼の行動は、変わらない。
というのは強がりで、本当は怖い。佐竹はウソのつけない正直な男だ。だから思う。もしも「その日」が来なかったらどうしよう? 何故って、彼はもうずいぶんな日々を費やして走り込んでしまっていて、筋肉、つけてしまっていて、これって何なんだろう。なんになるんだろう?
…ていうか、僕は誰のことを、待ってるんだったか?
考えるといてもたってもいられなくなるので、走り出す。佐竹には政治がわからぬ。佐竹は、派遣社員である。実家が工場と言ったのはただの設定だ。本当はある期間、雇われているだけの非正規雇用だ。工場で餃子を包み、隙間なく並べて焼いて暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人より少し敏感であった。
佐竹は走らずにいられない。自分はこの先どうなるんだろう? どうしてこうなんだろう? このままこの国にいて、いいのかな?
少なくとも。「わしだって、平和を望んでいるのだが」などと言い腐るかの邪智暴虐の王を除かなければならぬ、と佐竹は思っている。「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か」と心の中で嘲笑する。だが心の中でしかそう出来ない。彼には参政権がない。
せめて彼に、命をかけて信頼し合える友がいたら。あるいは、三日三晩命がけで走ってでも結婚を祝福してやりたい妹がいたら。
なんて、暇があると、つい考えてしまうので。考え始めてしまうと、いいことがないので。だから走って、待っている。最近は万歩計のカウントだけが、彼の心の友達である。
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モチーフにさせていただき、一部引用した作品:太宰治『走れメロス』