7-5
女ってなんでこんなにすぐ泣くんだろう。
僕は泣く女が苦手だ。正直、涙自体にはあんまり何も感じない。自分にとって、泣くっていうのは相当なことだから、最初はやっぱりかなり動揺したんだけれど、だんだん、そういうんじゃないんだなってことが分かってきた。この人たちにとっては、「泣く」って選択肢が手近過ぎ。涙ってもっと特別なもんじゃないのかな?
だけど泣かれると、もう一気にこっちが悪いみたいな雰囲気になるじゃないですか。まあなってもいいんだけど。例えば外にいるときに泣かれたとしても、知らない他人からなんと思われたところで僕は別にかまわない。ただ、泣いているキミは、それを分かっているのかね? とは思う。だってそうなったら、もうマトモに話は出来ないわけで、なんだよ話したくて話し出したんじゃないのかよっていうか、話したいんじゃなくて本当は俺を糾弾したいだけだったのか、さっきから一体何を言われてるのかよく分からないんだけど、これはあれか、とにかくそういう圧に耐える刑罰みたいなことなのか。
そんなことを思っている間にも、彼女は泣き続けている。涙は流れるに任せて、まっすぐ僕を見すえる目が、非難の念に染まっている。
緑子はなんで泣いてんだろう。僕は状況に全くついてけてないわけだけど、それと関係なくこの女の子は泣いている、ってこの「関係なく」とかが冷たいんだろうけど。どうやら原因は僕にあって、そのことが緑子の中では確立され切っていて、でも僕はそれを1ミリも自覚できてなくて、平行線だ。こういう状況は、よくある。時々、自分は人の気持ちが全然わからない人間なんじゃないかと思う。人の気持ちを察することが出来ない。本当に、わからない。でもわかりたいから、言葉できちんと伝えて欲しい。そうしたら努力するから。少なくとも傷付けたいとは思ってないし、好きだと思って今ここに一緒にいるわけだから。
7-6
「ごめん、今のは俺が悪かった。でもさ、俺ちょっとほんとに、緑子が何に怒ってんのかわかんないんだけど」
と言うと緑子はギョッとした様子で、異次元のオバケでも見るような目で僕を見た。やっぱり僕は、とんでもないことをやらかして、その上それに気付くことすら出来ていないんだろうか。でも負けない。
「や、あの、俺が悪いことしてたんなら謝るけどさ、でもほんっとに身に覚えがないのね。ていうかその『さっきの』っていうのも全然分かんないんだけど、どれのこと? 俺なんか、間違えた?」
緑子の顔から怒りが消えて、哀れみのような気配と戸惑いが満ちた。そして小さな声で、「何言ってんの?」と言った。
「いやだから、今のままじゃ何に怒ってるのか分かんないからさ、もうちょっと整理して話してくんない?」
緑子は怯えたような目で僕を見つめて、黙っている。涙は止まっている。これは嫌悪か? 呆れられてるってことなのか?
「嫌な気分にさせたんなら謝るよ。でも申し訳ないんだけど、俺わかってないから。緑子が何に怒ってるのかちゃんとわかって、それでちゃんと謝りたい」
険しかった眉間がゆっくり静かにひらいていって、表情が無くなった。なんの色もない。穴のような目が二つ、まっすぐに僕を見ている。
こんなときにおかしいけれど、可愛い顔だなと思った。そういえば久しぶりに、この人の目をちゃんと見た気がする。白目が濡れた貝みたいに白くて鼻が小さい。目をつぶると、右のまぶたにほくろがあるのを知っている。
「大熊くん、さ、井尾って女、知ってる?」
「だから知らないって」
少しの間。
の後に、緑子は、「あ、うん。……ごめん」と言った。僕の疑いは、無事晴れたのだろうか?
7-7
彼が触れようと近付くと、彼女も同じ速度で後ろへ退いたので、彼は彼女に触れることが出来なかった。彼女は彼の方に手を差し出して、手の平をすっと彼に向け、立てた。それは、彼の前へ進もうとする気持ちを押しとどめる効果を持った。しかしそれが拒絶でないことは彼にもわかった。彼女の内で今、何か大変な混乱が起こっているようだった。彼女には距離が必要だった。そしてそのことを彼が認識し、受け止めるためにも、距離は有効だった。
一言ひと言、とりとめなく散らばってゆくものをかろうじて押さえ、存在をつかんで地表に留めようとするように、彼女は言った。
「わたし、が、考えている、の、は、」
「はい」
「あなた。は、大熊さん?」
「はい」
「……じゃあコグレは?」
「は?」
何か、耳慣れない単語を彼女がつぶやいたような気がしたが、彼は差し当たり気にしないことにする。彼女が続ける。
「あのですね」
「ハイ」
「えー、初め、私は、想定していました、あなたの、大熊さんの天秤の、一方に私、もう一方にどなたか、という状況を」
「ハイハイ」
「です、が……」
「うん?」
女が苦しげに顔を歪め、口を中途半端に開いたままで、次の言葉を探して停止する。何かに抗うように、意識を張り詰めた様子で訥々と言葉を継いでいく彼女に、今は男も付き合う所存で、呼吸を静めて待っている。と、急にその空気を弛めるように息を吐き、女が言った。
「……なんかもう、やめていい?」
「え、なんで? もうちょっとやろうよ」
男は明らかに拍子抜けしている。もしかしたら、少し腹を立てかけているかもしれない。彼女が話す。
今ね、話しても話しても、私これどっかで聞いたことあるぞっていう感覚が、ありまして。(へえ)これはたぶん、デジャヴってやつだわあ、と思いつつ、さっきから、そっから逃れようとして、こんなおかしな話し方になっている、わけなんですけれども。(ハイハイ)それで、だから、ね、天秤の一方に、私。で、もう一方に、アヤ、チャン……? (ん? アヤちゃんは、あなたの友達でしょ?)……うん。(緑子の夢ん中で、ビルから落っこちちゃったんだよね?)そう、そう。(ん??)そう、なんだけど、でも、(うん)すごい勢いで泣いて走って去ってこうとしてるアヤをさ、大熊くんは、追いかけようって、思ってんの? (んん???)知ってるのにね。女の子の足だし走ったら全然追いつくな~と思って、判断して、走り出す大熊くんを、遠くの方から私がまっすぐ見てるのを、知ってるのにね。(……何言ってんの?)そしてね、今こうやって必死に話してる私のことを、大熊さんは、いつかどこかで、面白おかしく人に、話すでしょう。(は? え、予言?(笑))うん、意味わかんないと思うんだけど、聞いて。それでね、あなたが話すとき、それを「あーハイハイ」っつって訳知り顔で聞いてる女が隣に、いるんだ。(だから女とかいないって言ってるでしょ?)うんごめん、それは私も今は、理解した。でもね、最近までそのポジションに、私がいたの。
7-8
まるで意味がわからなかった。二人とも、それぞれに、暗澹たる気持ちだった。女の方が少しだけ状況を理解していたけれど、その分、道の無いこともひしと分かって、どん底だった。
男が言った。「聞いたけど、さっぱりわからない」「うん、わかんないと思う。話しても、わかんないと思う」そう言えば男が傷付き、また腹を立てると分かっていても、女はそうしか言えなかった。案の定、彼は「何それ、ものすごく一方的じゃない?」と声を荒げて、彼女はそれを正しいと思った。だから続けて、こう言った。「ごめん、私がおかしいんだと思う」
男「そうだ」
女「でも今は、ちょっともう話せない感じだから、今日はもう寝たい」
男「……そうか」
女「うん」
男「じゃ、そうしよう」
男、乱暴な足取りでベッドに入る。
女 おやすみ。
男、答えない。
7-9
女、頭から布団にくるまってしまった男の背中を、ぼんやりと見つめる。続いて室内を、ゆっくりと見回す。
本棚の本の手前のわずかなスペースに、ベアブリックの小さな人形が倒れている。体を鍛える通販グッズが、ホコリをかぶって置いてある。卓上には色の付いた輪ゴムとクリップが、東南アジア風の木製の皿に入ってあり、請求書と思しき封筒が何通か、未開封のまま置かれている。窓にはカーテン代わりの適当な布が貼られているが、長さが足らず、下の隙間から外の景色が見えている。
長く住んでいるはずのその部屋を、知らない部屋のように眺めてから、女は静かにベッドに入る。男の隣に身を寄せる。
窓の隙間から射す光が、長い時間をかけてゆっくりと色を変え、徐々に明るくなっていく。今日が明日に姿を変えて、もうすぐ朝がやってくる。