Appartement(男性名詞):アパルトマン、マンション、(複数形で)王宮・城館の居住部分。
フランス語のappartementの語源を辿ると、ラテン語のappartiamentumに行きつく。分割されたもの、シェアされたものという意味。
あるいは、19世紀フランスの小説、フロベールの「ボヴァリー夫人」で使われるような古フランス語では、言葉はより親密な意味を持ち、「慣れ親しんだ空間」「個人にとっての習慣的生活の場」として使われるようになる。
私にとって、この「アパートメント」という執筆の場は、人々が社会的共同生活(シェアされたもの)を営む中で、個々人の内的空間(慣れ親しんだ空間)を守る場所のように思える。ひっそりと、豊かな場所。
初めまして。Leikoと申します。9年ほどフランスのストラスブールという街でコウノトリと共に育ち、大学になってパリに移り住み、今は東京でフランス語や美術を生活の中心に据えて、日々を過ごしています。好きな色はパープル、仄かなグレー、翡翠色、ベルベットの黒。他にも、濡れた石畳の色、パリのオスマン時代のアパルトマンの壁の色、そしてマティスの空のようなブルーグレー。
これから9月までの2ヶ月間、イカレ帽子屋のティーパーティーよろしく、フランス語や美術や文学や旅のこと、私が大切に想っているものたちについて、乱雑に綴っていきます。
余りもののクッキーや金平糖のように、つまみ食い気分でご賞味いただければ幸いです。
最初のテーマは...そうだなぁ、うん。香り。
香りは、フランス語でparfumと言います。男性名詞。ぱーふぁん、と読むのが、正しい発音に一番近い。
香りをつけるという意の動詞parfumerは、ラテン語の接頭詞per(=〜を通して)とfumare(=燻らす)からきています。燻し、煙をくゆらせ、香りをつける、というかたちで、定着したと考えられています。
parfumを仏仏辞書で引くと、「染み入るもの」、という定義にいきあたる。
出逢う者の、肌に溶けるように染み込んでいくもの。香りをまとった人のまわりには、うっすら特別な膜ができる。
プルーストの「失われたときを求めて」のマドレーヌを引き合いに出すまでもなく、香りはときとして鮮明に記憶を呼び覚ます。それは、脳の中で、香りを感知する部分と、記憶を司る部分がお隣同士だから...という話を、昔、聞いた。
香りはいつだって不意打ちなので、油断ならない。有無を言わさず人の心を揺さぶりにかかる。
私は、好きな人の香りがすると、ところかまわず、とろとろになる。心がとろける。それは香水に限らず、その人の肌そのもののにおいだったりする。ミルクっぽい人、犬っぽい人(笑)、相手のうなじや鎖骨に鼻を押し当てて、そのにおいを吸い込むことで、相手の存在を確認して、安心する。ちゃんとそこに居るという事実。一番動物的な確認方法。
香りは、実際に触れる物体よりも現実感がある。存在感の強さ。それは、香りが皮膚を通り越して、心にまで染み入るからではないかしら。
自分の香りは、かれこれ10年くらい変わらない。
ときたま、気分転換で浮気したりもするけれど。基本的に、ひとつの香水への愛を貫いている。
ホワイトフラワーに、ムスク。シンプルな黒のボトルも、気に入っている。
そうでなければ、月下香。夜に特別強く香る、チュベローズの花。
(香りは、香水だけとは限らない。Diptyqueの石鹸たち。)
大学時代、パリに住んでいた頃、日本からいらした調香師さんをあちこちご案内したのがきっかけかもしれない。ニッチの香水の魅力にとりつかれた。
Parfum de niche。ニッチの香水というのは、いわゆるシャネルやアルマーニなど、洋服がメインで、しかしコスメラインなども手がけるファッションブランドが出している香水とは異なり、純粋に香水しか作っていないお店の香水のこと。DiptyqueやL’Artisan ParfumeurやAnnick GoutalやThe Different CompanyやJo MaloneやPenhaligon’sなど。
人工香料をメインで使っている大手ファッションブランドの香水に比べ、ニッチの香水は天然香料の割合が大きい。前者の利点は、出したい香りをブレなく作れること。後者の魅力は、つける人の肌や環境、時間の変化によって、香りに揺らぎが生じること(だと勝手に思っている)。
それはCDとレコードの違いのようだ。CDはクリアな音を楽しめるし、レコードは音の厚みや、ときたま入ってくるパチパチとしたノイズも、魅力でしょう?
私は、そういう「揺らぎ」の余地が、好きです。
洋服を「着こなす」のと同じように、香りを「つけこなす」人に、初めて出逢ったのは二十歳の頃。
その人は香りを作る日本人で、私にはそれが魔法使いの所業のように見えた。
彼は、異国の分厚い絨毯のような、重い重い、Serge Lutensの香水を、実に軽やかにつけていた。(Serge Lutensの香水は本来、モロッコのスパイスの香り立ちこめる市場や、日本のお香などにインスピレーションを得ていて、ずっしりと、沈むように重い。)
サンスクリット語で「輪廻」を意味する、ゲランのSamsaraを教えてくれたのもその人だった。アラビアンナイトを彷彿とさせる、オリエンタルな香り。
街行く人々が、なかなか豪快に香水を振りかけ歩くフランスで育った私に、
密やかな付け方を教えてくれた人。
体温が感じられるほど近くに寄って、初めて、くらりと薫るような付け方。
フランスでの香水選びのたのしみの中に、表現の詩的豊かさがある。
待ち合わせの相手が遅れて、所在なくパリの街をぶらぶらしていたときのこと。
Sephora(いろんなブランドの化粧品を扱っている、比較的どこにでもあるフランスのコスメチェーン)のお兄さんに声をかけられる。
「これは僕のお気に入りなんだよー!」
勧めらるままに嗅いでみたら、しゅぱしゅぱとした香り。
炭酸水みたいに、弾ける感じ。夏のCMにありそうな。
「きらめく鱗を持った、人魚の飲み物のようだろう?」
人魚の飲み物!!
そのあとは、夕暮れ時の南の雲にピンクペッパーをまぶしたような味、とか、雲母を海底にしきつめたような感じ、とか、絵本のように美しい言葉合戦を愉しんだ。
恥ずかしげもなく、夢見がちな言葉たち。
それから、最後に。
「におい」は嗅覚だけでなく、視覚でも感じられる。
においたつような絵、というのが、ある。
匂い立つような花は、速水御舟。
《芍薬図》 大正12年 絹本着色 53.1×44.5㎝
降りしきる雨の中で、重たげに首をうなだれる紅芍薬。
水気を帯びた色彩は鮮やかさを増して。
においは深まり、濃厚に漂う。
匂い立つような女は、木谷千草。
《夢の通い路》 20世紀前半 絹本着色 1幅119.2×24.3㎝
近松門左衛門の歌舞伎作品を題材にしたもの。京へと旅立った夫を想う妻。
とろみのある表情。少し崩した正座。
着物は、女のからだを流れるように描かれていて、しっとり、くったり、しどけない。
扇面が散らされた柄は、生地の流れとともに、ゆらめいて見える。女のからだが、ひとつの水の流れになる。
艶めいた湿度。
そして、匂い立つ果実は、シャルダンの桃。
Jean-Siméon Chardin 1759 《Le Panier de pêches, raisin blanc et noir, avec rafraîchissoir et verre à pied》 37.0×45.0㎝
食いしん坊な私は、ほの暗い部屋の奥からねっとり漂う、熟れた桃の香りに心奪われる。