結論、この世の中を一人で生きていくことは出来ない。
28歳なんだからそんなことくらい解っている。
一人で済ませられるのなら、全て一人で済ませる方がずっと楽だと思っていた。「一人でやってしまおう」というのは、何でも一人で背負い込む頑張り屋さんと見せかけて、恩義、信頼、義務、連帯責任、役割分担、期待、それらから逃げるように導き出した答えだったかもしれない。バスケットボールを受け取ったら誰にもパスせずゴールまで突っ走る。体力切れでゴールポストにボールが弾かれる。振り返ると、チームメイトが「パスしてくれればよかったのに」と呆れている。
「言ってくれれば良かったのに」そんな台詞を何十回、何百回聞いたかわからない。
そのわりに、人に受け入れられたいという願望も決して捨てきれない。
受け入れられたい、一人になりたい。我ながら面倒な性分に自分自身が翻弄されてきた。
他者との激しい言い争いの中で「まるで一人で生きてきましたみたいな顔をして、一人で生きていけると思うな」と詰られ、悔しくて泣いてしまったことがある。その通り、結局一人では生きていけないのだが「誰のおかげでここまで来れたと思っているんだ」と言われたら「じゃあもう要らない」と言い放ち、その場で息を止めてしまうかもしれない。
人と関われたこと、人が関わってくれることに対して常に感謝の気持ちを忘れていない。何かを上手に成し遂げる時には、誰かの力を借りたり、頼ったりすることが必要だということも知っている。しかし「自分が誰かに依存して生きている」という自覚が芽生えた時、私は拒絶し、極端に孤立に走るだろう。
誰かのおかげで生かしてもらうのではない。
「一人きりでもここまでなら頑張れる」という限界を知った上で、他者と共存していたい。
好き放題、好きなモチーフを描いてきた時期を経て「しかしこれは一体何に適したものなのだろう」と考えるようになった。人々の暮らしの中に絵がある。絵画はインテリアだ。絵画にはメッセージがある。長方形の世界から蔦を伸ばし、壁に張り付き、天井へ伸び、家具へ巻き付き、その色を空間全体に張り巡らせ、暮らす人々の思想を彩っていく。世界観の源泉である。
四角い枠から、世界を解き放つ作業。これからこの真っ白に塗った椅子をキャンバスに絵を描いていく。
この2ヶ月の制作期間で試みたいことの1つは、キャンバスを越えた表現だ。私の絵画を手に入れてくれた人が、前提にある自身の生活空間にどう生かしていくのか。既に出来上がっている生活感に違和感を与えるインテリアとして迎え入れられても、その人が満足していればそれで良いと思っている。しかし、少なくとも作者自身が「その絵画のある空間」を想像し、提案出来なければならない。
絵画も「一人」じゃ生きていけない。それでも、媚び諂うように創りたくない。
生みの親としては送り出す前に、他者に溶け込む術を与えていく。
小林舞香