美についてなんて、たいそうなこと気鋭の美術家たちあつまる
このアパートメントで、釈迦に説法な無知さかもしれない。
でもまあ、
わたしは、ここ最近考えてきたことがこのことを中心としていて
まわりの人たちに「いちばん美しいもの」ってなんだと思うか、と聞いて回っていた。
ことば
ガンダム
数学
オイラーの公式
動物、生物(かわいさとメカニカルな生物としての意味)
目的に対して最短の手法であること
四季
鏡面、シンメトリー、ウユニ湖
情念
光
このましさ
母(概念としての)
目的に向かう人の姿
透明
星空
理想
エネルギー
清らかさ
小さな労力が規則性をもって積み上げられること、タイル装飾など
など
これらの返事をもらっている時、私はとても幸せだった。いまも至福で。
というのも、友人たちに聞いて回って
10年以上付き合いのある人達なんて何度も何度も一緒にごはんを食べたのに、俗事のお喋りに始終して
本当に個人が内面におもう喜び、琴線に触れることを聞くことができた神聖な機会は滅多になかったからだ。
また、付き合いの浅い人たちとは急に親密になった気がした。
「何が最も美しいと思うか」はいくつかの層の意味をもつ。
●あなたは何が好きか
●あなたの好きなものの共通点はなにか
(その共通点とあなたの生は同期しているか)
これは、設問をどれとでも理解しても
多くの場合は
「かわいい」「かっこいい」「きれい」を通して長文の解説付きで語られた。
おそらく「美」とは超越的でつかみがたいので、その表れの糸口としての
かわいい、きれい、かっこいい事例を通さなければ語るすべもない。
これらの語義については
「かわいさ」→幼児性、親しさを表現する関係性、2者間的
「きれい、かっこいい」→均衡が取れている、羨望、フェティッシュ
にやんわり基づいており、社会背景や時代性によって鑑賞ルールが定められている。
そして、相対的な比較対象での評価であって
概念が重なる部分を持つ表現はたくさんあるが
美からの視点においては、それは手法であっても「美」そのものの問題には入ってこない。
美は、数学(無味無臭、無音、真空さ、摂理そのもの)にも通用するうえ、
そうなってくると、人間以外の生物とか、むしろ生物じゃないなにかとも共有が可能でありうる概念だからだ。
「美しい」は形容詞だが「美」のことを考えていた。
(かわいい、かっこいい、きれい形容詞も時に神聖を含むので「美」の神聖にも大いに通じてはいるのだが)
数学は理解者が誰一人いなくても勝手に法則を運営していて
他の人為的でないもの、
光や自然や天体はきれいではあるが人間が滅亡しようが評価者がなくなろうが一切その生存に関係なく
依存もせず勝手に生きて美をたたえるし、死ぬときは死ぬ。
おそらくこれは法則や天象の顕れが美しかったのが、たまたま人の心に資しているという状況だ。
いずれにせよ、人為的だろうが非人為的だろうが
これらは「美」に至る小さな覗き穴のようなもので、
3次元下では可視、可聴環境に顕現しやすく、人に感動が分かりやすかったのであって
「美」そのものは顕現媒体について言われているのではなく
覗き穴の先にある、キャンバスの、音の、データの、その、向こう側の
無形の霊性というべきなにかで、「美しい」はそれに当てられた体感感覚を発語した形容詞だとおもう。
「美」自体は関係性に依存せずに成立するため、その存在を感じることはできても誰も直接触れることができないらしい。
美の表れである、美術品を置く環境や使用方法等によって美術品を陵辱したり、殺したり破壊することはできても
美術品がつないでいた覗き穴の先にあった「美」そのものを専有したり、汚したり、奪うことも触ることもできない。
数学や月や自然を専有することはできないのはいうまでもないが
これらも水面に写った仮の姿にすぎない。
一見、専有できる美術品においても物の流れが一時のリレーのバトンであって
また、高額であるほど資産なので手を離れるのが早い。「美をたのしむ」目的においてはそれはレンタルなのだ。
ちなみに、この破壊は地上に表れた美への接点の破壊なので共有者を減らした罪はある
(美しいものには消耗品もあるが、資産にならないので
とてつもなく高額にはならない。また、所有も瞬間的なものだ。)
ところで、美の表れには時に悪魔的なものが多くあることも大切だと思う。
表面化させないようにしている残虐性や欲求の満足、反平和、枯渇心
情念に依るものや人間性の危ういもの、叫び、ひきちぎれそうな何か
これらは人が集まった関係性の中に表れた熱量であって、共感によって鑑賞者が癒やされうる。
通用する状況は社会の中での生きづらさや執着をみんな持ってるよね、という人間にとっての前提下で
特に、心がえぐり取られるものの主題を「普遍的テーマ」ともいうが人間と社会にとっての普遍のことで
宇宙にとっての普遍のことではない。
その他細かいことでは
任侠、人情は背景の社会や物語がなければ成立しないし、
ベーコンのネクタイや目玉のポーチ、サブカルグッズやキモ、グロは特定の時代背景、コミュニティ、
条件下でなければ意味を持たないボケ要素(ツッコミ待ち)であるし、
網タイツやボンテージなどについては人の肉体美があるかぎり時代をわたって扇情的な要素はあるが、
発達した社会でしか発揮されない
これらなにがしかの表れを見て聴いて、ダメージを受けたり癒されもする、
理解は知的なゲームへの参加であって、美と同じ表現媒体が用いられても直接「美」そのものの体感には至りにくいと思う。
しかし心の閉鎖状況では美への迂回路として機能する。
つまり複雑な社会性や関係によって閉じていた人の心の窓を少しでも開けることができ、その窓からは美や霊性の風が吹き込んでいるからだ。
美はそもそも、体感する時に「一体化する」光悦さを含むが
知的ゲームでも感動が理解や「共感性」に基づいているので体験過程は似ていて、方法に段階の差はあるが
だいたい同じだ。
それで、では「唐木さんはなにを一番美しいと思うのか?」ということについて
「知性」と答えてきた。
絵画や数学やおしゃれや生活やあれやこれや自然物も美しいものは何でも知の表れのように思ったし
感動するときは、豊かな知性に当てられた気がした。
美を言い表した気持ちになったのでドヤっていたと思う。
ただ、それは「知性ってすてきよねー!最高!」であって、「ガンダムっていいよねー!最高!」と本質は同じだ。
たいへん「美しい」が「美」そのものに近づいていない。
設問に対して、この答え自体はずれていないが
これは、
「美に至る道として、何を選んだか(何に惹かれるか)」
だった。
この様子だと美はもう三次元を超えても顕れうるし、神かもしれないし、そのものを説明し切ることが文章によって可能なのかすらわからない。
もう一度アンケートに答えてくれた知人友人たちの答えを見て、思うのは
「私は、これによって、愛を、みる」
であって、つまり、
ことばによって、
ガンダムによって、
数学によって、
オイラーの公式によって、
動物、生物(かわいさとメカニカルな生物としての意味)によって、
目的に対して最短の手法であることによって、
四季によって、
鏡面、シンメトリー、ウユニ湖によって、
情念によって、
光によって、
このましさによって、
母(概念としての)によって、
目的に向かう人の姿によって、
透明によって、
星空によって、
理想によって、
エネルギーによって、
清らかさによって、
小さな労力が規則性をもって積み上げられること、タイル装飾などによって、
知性によって、
愛をみる
参考:「かわいい論」四方田 犬彦 (著)
美輪明宏が「この世でもっとも美しいものは愛」と言っていたのを思い出したこと。