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2F/当番ノート

踊る身体

当番ノート 第23期

 千葉駅から少し離れたところにあるサンマルクカフェ。店内に人はほとんどいない。ゆったりしたジャズが耳を澄ませばはっきりと聴き取れる音量でかかっているのはどこのサンマルクも同じで、店内の装飾、椅子と机の規格もおそらく同じだろう。マクドナルドやUNIQLOが全国どこも同じように、チェーン店というのは全国どこでも似たようなものだ。店内に入ってしまえばそこが沖縄であろうと北海道であろうと新宿であろうと関係ない。違うのは店員の言葉遣いと、おもむろに本を広げたり勉強をしている人の違いだけだ。だがその人たちも、どことなく似ている。

 郊外都市はどこも同じ風景になってしまったと言われる。でも僕はいつも新しい街や初めて降りた駅ではドトールを探すし、ドトールがあると安心する。同じデザインのグラスで同じ味のアイスコーヒーを飲むと安心する。身体がこの規格化された空間に慣れているからだろう。同じ色と形をした丸い机、同じ高さの椅子、同じ照明、同じ音量のーサンマルクよりは大きく、マクドナルドよりは小さいー音楽。サンマルクの机は四角く、ドトールとスタバの机はまるい。ドトールに比べるとスタバのまるい机はすこし大きい。サンマルクに行けば人はサンマルク的になり、ドトールに行けばドトール的になり、スタバに行けばスタバ的になる。空間が身体のモードを規定し、身体が意識を規定している。

 ここ数ヶ月の間、なにかにつけ身体について考えていることが多かった。都市と身体の関わり、建築と身体の関わり、音楽と身体の関わり。平日は千葉駅で過ごして休日は東京で過ごすという生活が続いたこともあって、両都市の違いをこれまで以上に意識させられた。東京と千葉では人の歩き方も歩くスピードも違う。ファッションももちろん違う。ファッションが違えば身体の所作も異なる。身体の所作が異なれば意識も異なる。最近の僕が身の回りを観察するとき、何かに気づくとしたらそれはすべて身体的な事柄だった。良くも悪くも、東京に住む人間は見る/見られる身体ということを否応なしに意識させられる。これを息苦しいか快感だと感じるかは個人によると思うが、これを僕は都市を都市たらしめる一つの条件であると感じている。この見る/見られる身体へと動員する大きな力が広告とメディアであり、見出された差異の隙間を埋めようと掻き立てられるものが人間の欲望だ。

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7月だったかと思う。知人の出演するリュリのアルミードを南青山に観に行った。その下調べとしてYouTubeでアルミードのパッサカリアの動画をいくつか観た。こういう通奏低音の流れる変奏曲が昔から好きで、この曲も気に入った。第五幕の見せ場である。観ながら、言葉を失って見入ってしまうということを久しぶりに体験した。身体表現にはこれまでも興味を持ってきたけれど、ここまで強く身体に引っかかる経験はここ最近では初めてだった。やっていることは単純で、特別なことはなにもしていない。でもこの時だけはなぜだか引き込まれてしまった。見入って感動している間、言語はまったく介在していない。

  詩や音楽も、その初源は舞踊であると言われる。

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 身体とはなんだろうか。生身の肉体のことだろうか(AV女優やボディビルダーを思い浮かべる)。あるいは、身に纏った衣類は身体に含まれるだろうか(Fashionsnap.comのスナップを思い浮かべる)。喫茶店の空間は身体に含まれるだろうか。この文章は身体に含まれるだろうか。あるいは建築は。都市は。iPhoneは人間の身体の一部になっただろうか。Twitterのタイムラインはどうだろうか。流れていくタイムラインを眺めるとき、自分の身体はどこにあるだろうか。高校野球やサッカーを観戦するとき、手に汗握る場面で自分の身体はどこにあるだろうか。

Chaconnne / Bachのダンス作品。

 僕たちが日常生活で取りうる身体所作を点検してみると、おそらくそれほど多くない要素に分類されるのではないかと思う。起き上がる、立つ、座る、屈む、机に肘をついて座る。背筋を伸ばす、おじきをする、足を組む、等々。それぞれの動作はそれぞれの意識をつくっている。
 ダンスというのは日常では意識しない些細な身体を意識させるもので(あるいは身体の序列を覆すもので)、意識の間に新たな隙間を与えてくれるようなものだと僕は思っている。

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 23期の水曜日を担当することになりました森田です。これから二ヶ月間お世話になります。
 ここの管理人の佳央理さんと横浜の大桟橋ホールにてちょっとした共演をさせていただいたのが2011年のことで、それももう4年前のことになります。しばらく長い文章を書いていなかったため苦労しそうですが、ご近所の皆様、よろしくお願いします。苦手なものは早起き、声は小さい方です。

 

たも

たも

防音室に住んでいる。ヴィオラとピアノを弾いて、走って、泳ぎはじめました。

Reviewed by
小沼 理

身体と意識に関する一連の文章を読んで、踊らない僕は踊る人の身体を思う。それは波打ち際のように踊る状態と日常の状態が交互に訪れて、常に乾かないようなものか。そもそも僕は本当に「踊らない」のだろうか。

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